父・喜三郎の遺産をもとに、明治三八年(一九〇五年)小間物屋を始めてから一一年たった大正五年(一九一六年) のころ、教祖はすでに一五万円の資産を有していた。その後、旭ダイヤの収益で財産は年を追って急速に増加した。しかし、まだ新聞経営の資金一〇〇万円にはほど遠い。そこで第一次世界大戦の景気にわく株の世界に目をつけ、手持ちの資金を融通して株式仲買人に対する金融業を始めたのである。
ほどなく日本橋蠣殼町にあった倉庫銀行に信用ができると、仲買人の持ってくる手形や小切手を倉庫銀行に持ち込み、自分の信用で現金化して仲買人に貸し、利鞘〈りざや〉(売買の差益金)を取った。それが順調に進むので、さらに手を広げ、今度は教祖が自分で小切手を切って仲買人に与え、仲買人はその小切手を担保に銀行から金を借り、教祖と銀行の双方へ利息を払う、という操作で金の融通をすることにした。教祖にしてみれば、自分ではまったく現金を用意する必要がなく、しかも日歩五銭の金がはいるのであるから、危険も多い代わりに、妙味も大きい仕事であった。
この仕事を担当したのは、吉川という人物であった。この男はすでに述べた「永代活動写真珠武舎社」の株券の裏面にも、譲受人としてその名前が登場している。教祖はこの吉川を信用し、実印まで渡して金融業の運営にあたらせていたのである。その結果、最盛期には株の関係で作りあげた教祖名義の金は、現金と小切手で十数万円を数えるまでにいたった。
ところが、大正八年(一九一九年)春、金融業の後楯と頼んでいた倉庫銀行が突如支払い停止となり倒産してしまったのである。
岡田商店の破綻は思わぬところから訪れた。吉川は倉庫銀行に教祖名義の預金があって、それが無に帰してしまったのが、すべてを任されている自分の責任であると感じ、教祖に知れぬように何とか挽回しようとしたようである。しかし、追いつめられた吉川は、その時、高利貸しから金を借りるという自殺的な道を選んでしまった。その結果は、利子がさらに利子を生み、元金に加算されるといった具合で、ついに進退窮まったのである。
事実が判明した時には、すでに事態は容易ならざる段階にまで進んでいた。窮地に陥った教祖は銀行に頼み、一時逃れとして小切手の支払いをすべて停止した。しかし、怒ったのは高利貸し連中であった。差押え手段に出るとともに、詐欺の訴えを起こしたのである。
差押えの処分は教祖にとって文字通り、青天の霹靂であった。ある日、いきなり大鋸町の屋敷にやってきた三人の執達(強制執行をする役人)は、来訪の目的を伝える紙片を差し出し、部屋から部屋へと回って、おもな家財道具には小さな紙片で次々に封印をし、最後に差押え理由と法律的な規制を書いた公文書を箪笥の横に貼って帰って行った。見るとそこには、差押え物件は、たとえ所有者であろうと、その人間の自由にしてはならないこと、貼った紙片を破ると処罰されることなどが書かれていた。ところが箪笥の抽斗〈ひきだし〉にはすぐにも使いたい衣類がはいっている。紙を傷つけないように苦心してはがし、中身を出してようやく安心したという一幕もあった。
高利貸しの訴えによって、教祖はまた検事局(現在の検察庁)に呼び出され厳重な警告を受けた。吉川の振り出した小切手は、すなわち教祖名義の小切手であるから、法律的に責任を追及されるのは当然であった。
しかし、一二万円という負債の返却は容易でない。そこで債権者である高利貸したちに頼み込んで、金額を三分の二の八万円に負けてもらった。そうして、そのうち半額を現金で、半額を月賦で払い込むという約束がようやくできあがったのである。この時から、昭和一六年(一九四一年)まで、じつに二二年間の長きにわたる借金返済の苦闘が始まったわけである。これは急成長を続けた岡田商店が、光琳堂から数えて創業一五年目にして初めて迎えた最大の苦難であった。
吉川はそれから後になって不慮の死を遂げた。自分を大変な窮地に落とし入れた相手ではあったが、教祖はその葬儀にも参列し、よく礼を尽くしたのであった。
「結局は自分が信頼しすぎたのがいけなかったのだから。」
と言って、同情こそすれ、一言も恨みがましいことは言わなかったのである。