教祖はさらに、西洋哲学の図書も数多く読んだ。なかでもとくに強い共感を覚え、高く評価しているのは、アンリ・ベルグソンの「直観の哲学」と、ウィリアム・ジェームズが主張した「プラグマチズム」である。
アンリ・ベルグソン(一八五九年~一九四一年)は、一九世紀の中ごろにパリに生まれたユダヤ系フランス人で、科学的知識を唯一絶対とする考え方に反対し、「生命の哲学」、「直観の哲学」を説いた。
教祖はベルグソンの哲学をきわめて簡潔に要約し、わかりやすく教えている。そこではベルグソン哲学が日常の世界に引き寄せられ、生きる指針として示されているのである。後になってつぎのように記している。
「私は若い頃、当時持てはやされたフランスの哲学者、故アンリ・ベルグソン氏の学説に共鳴した事がある。その説たるや、今も尚思い出す事がよくあると共に、信仰上からいっても稗益するところ大なるものがあるから、ここに書いてみるのである。 氏の哲学の内、その根幹を成しているものは万物流転、直観の説、刹那の吾の三つであろう。特に私の感銘を深くしたものは、直観の哲学で、氏の説によるとこうである。
人間は物をみる場合、物そのものをいささかの狂いなくみる事は容易ではない。物の実体の把握はまことに困難である。これは何故であるかという事である。
元来、人間は誰しも教育、伝統、慣習等種々の観念が綜合的に一つの棒のようになって潜在しているものであるが、それに気づく事はほとんどない。これが為、物をみる場合その棒が邪魔をする。」
(『天国の礎』合本・三六七頁~三六八東)
「かように人間の陥り易い過誤を訂正するのが直観の哲学である。即ち物をみる場合、棒に禍いせられない、虚心坦懐白紙の吾となるのである。それにはどうすればよいかとい うと、刹那の吾となるのである。即ち物をみた一瞬直観した印象こそ物そのものの実体を把握して誤まりがない。」
(『天国の礎』合本・三六八頁)
「それから又彼の哲学には、万物流転という言葉がある。これも中々面白いと思う。それは万有一切は一瞬の停滞もなく動いているという意味で、例えば去年と今年とは一切が何処か違っている。世界も社会も同様であり、自分自身の想念も環境もそうである。否昨日の自分とも五分前の自分とも必ず違っている処がある。としたら昔からいう一寸先は闇という言葉もそれである。このように何でもかんでも一秒の停止もなく流動してやまないのである。
従って、この理を人間に当嵌めてみる時、こういう事になろう。何かの事にブツかった時、去年の見方も考え方も、今のそれと違っていなければならない。大きく見れば終戦前と終戟後とはまるっきり違っているではないか。僅かの間に驚異的である。処が多くの人は、何百年前のやり方や、何十年前の考え方が、先祖代々から棒のように続いているから 的確に現在を把握する事が出来ない。これを称して封建とか、旧い頭とか言うのであろう。つまり一切が流転しているのに、ご自分だけは泥水のように停滞しているからで、こういう人こそ世の中から置き去りを食ったり、不幸な運命となるのである。」(『天国の礎』合本・三七〇頁~三七一頁)
教祖がその思想に高い評価を与えたいま一人は、ウィリアム・ジェームズ(一八四二年~一九一〇年)である。彼は生理学、心理学、哲学、宗教学に造詣の深いアメリカの学者である。また、心霊現象にも興味を持ち、一部の識者からの攻撃を覚悟でその研究にも手を染めたという。
チャールス・サンダース・パース(一八三九年~一九一四年)が、「我々の観念を明瞭ならしめる方法」(一八七八年)と題した論文で、観念の意味は、その観念によって引き出される実際の効果によって確定されると主張した。この説に対して、パースの友人であるジェームズは「プラグマチズム」の名称を付けたのである。その考え方を受けて、教祖はどのような信念も教えも、私たちの生活の中ぎ役に立たない限り正しいとはいえないというふうに、その根本的な主張をとらえている。教祖はプラグマチズムについて、さらにつぎのように書いている。
「私は若い頃哲学が好きであった。そうして諸々の学説のうち、最も心を引かれたのはかの有名な米国の哲学者ウィリアム・ジェームズのプラグマチズムである。まず日本語に訳せば哲学行為主義とでもいうのであろう。それはジェームズによれば、只哲学の理論を説くだけであっては一種の遊戯でしかない。宜しく哲学を行為に表わすべきで、それによって価値があるというのである。全く現実的で米国の哲学者 らしい処が面白いと思う。私はこれに共鳴して、その当時哲学を私の仕事や日常生活の上にまで織込むべく努めたものであった。その為プラグマチズムの恩恵を受けた事は鮮少ではなかった。
私はその後宗教を信ずるに至って、この哲学行為主義をして宗教にまで及ぼさなくてはならないと思うようになった。即ち宗教行為主義である。」
(『天国の礎』合本・三七一頁~三七二頁)
プラグマチズムや、ベルグソンの「生命の哲学」など、教祖が学んだ哲学には一連の共通性がある。それは、どれも、単に知識の世界にとどまらず、思想や観念を我々の日常生活のうえで実現して、人生を生き抜いていくうえでの生きた信念となって現実の結果を生むこと――つまり力となって発揮されるべきであるという考え方に深いかかわりをもつ哲学であるという点である。
教祖は先人の立志伝はもちろん、新開の報道一つにしても、これを机上の空論に終わらせず、現実に根ざし、みずからの生活に生かすことのできるような実学を尊んだ。そのような学び方に徹した教祖であったから、哲学をひもとくにあたっても、抽象の世界に知的に遊んで、現実を離れ、生きた事実を忘れるということがなかった。そればかりか、思想・信念を生活に照らしてみて、その正邪、真偽を確かめ、生命の息吹きを伝える哲学こそ真の哲学なりとして学んだのであった。