正しき信仰

 支那<シナ>の碩学朱子の言に「疑は信の初めなり」という事があるが、これは全く至言である。私は「信仰は出来るだけ疑え」と常に言うのである。世間種々の信仰があるが、大抵はインチキ性の多分にあるものか、そうでないまでも、下の位の神仏や、狐、狸、天狗、龍神等を的としたものが多く、正しい神を的とする信仰はまことに少いのである。従って厳密に検討を加える時、大抵の宗教は何等かの欠点を包含<ほうがん>しているものであるから、入信の場合何よりもまず大いに疑ってみる事である。決して先入観念に捉われてはならない。何ほど疑って疑り抜いても欠点を見出せない信仰であれば、それこそ信ずる外はないであろう。しかるに世の中には最初から「信ずれば御利益がある」という宗教があるが、これは大いに誤っている。何となれば聊<いささ>かの御利益も認めない内から信ずるということは、己を偽らなければならない。故に最初はただ触れてみる、研究してみるという程度で、注意深く観察し、出来るだけ疑うのである。そうして教義も信仰理論も合理的で非の打所<うちどころ>がないばかりか、神仏の御加護は歴然として日々奇蹟があるほどのものであれば、まず立派な宗教として入信すべき価値がある。又こういう宗教もある。それは、信者が他の宗教に触れる事を極端に嫌うのであるが、これらも誤っている。何となればそれはその宗教に欠点があるか、又は力が薄弱である事を物語っている。最高の宗教であればそれ以上のものは他に無い筈であるから、他の宗教に触れる事を恐れる処<どころ>か反<かえ>って喜ぶべきで、その結果自己の信ずる宗教の優越性を認識し、反って信仰は強まる事になるからである。

 しかしこういう事も注意しなくてはならない。それは、相当の御利益や奇蹟の顕われる場合である。正しい神仏でも、人間と同様上中下あり、力の差別がある。二流以下の神仏でも相当の力を発揮し給うから御利益や奇蹟もある程度顕われるので、大抵の人は有難い神仏と思い込んでしまう。ところが長い間には二流以下の神仏では往々邪神に負ける事があるから、種々の禍いとなって現われ苦境に陥る場合があるが、一度信じた以上何等かの理屈をつけ、神仏の力の不足など発見出来ないばかりか、反って神仏の御試し又は罪穢の払拭と解するのである。

 信仰者にして病気災難等の禍いがあり一時は苦しむが、それが済んだ後はその禍い以前よりも良い状態になるのが、上位の神仏の証拠である。すなわち病気災難が済んだ後は、罪穢がそれだけ軽減する結果霊的に向上したからである。それに引替え、禍いが非常に深刻であったり、長期間であったり、絶望状態に陥ったりするのは、その神仏の力が不足の為邪神に敗北したからである。

 世間よく、あらゆる犠牲を払い熱烈なる信仰を捧げて祈願するに拘らず思うような御利益のないのは、その人の願事が神仏の力に余るからで、神仏の方で御利益を与えたくも与えられ得ないという訳である。このような場合、これほど一生懸命に御願しても御聞届けがないのは、自分はもはや神仏に見放されたのではないかと悲観し、この世に神も仏もあるものかと思い信仰を捨てたり、自暴自棄に陥ったりして、益々悲運に陥るという例はよく見るでところある。こういう信仰に限って、断食をしたり、お百度詣りをしたり、茶断ち塩断ち等をするが、これは甚だ間違っている。個人的にどんな難行苦行を行ったとしても、それが社会人類に聊<いささ>かの裨益<ひえき>するところがなければ徒労に過ぎない訳で、こういう方法を喜ぷ神仏があるとすれば、もちろん二流以下の神仏か又は狐狸天狗<こりてんぐ>の類である。故に正しい神仏であれば、人間が社会人類の福祉を増進すべき事に努力し、その効果をあげ得た場合、その功績に対する褒賞として御利益を下し給うのである。ついでに注意するが、昔からよく「鰯<いわし>の頭も信心から」という事があるが、これは大変な間違いであって、すべて信仰の的は最高級の神仏でなければならない。何となれば、高級の神仏ほど正しき目的の祈願でなくては御利益を与えて下さらないと共に、人間が仰<あお>ぎ拝む事によって清浄なる霊光を受けるから、漸次罪穢は払拭<ふっしょく>されるのである。鰯の頭や低級なる的に向っていかに仰ぎ拝むとも、低級霊から受けるものは邪気に過ぎないから心は汚れ、自然不善を行う人間になりやすいのである。それらを知らない世間一般の人は、神仏でさえあれば皆一様に有難いもの、願事は叶えて下さるものと思うが、それも無理はない。もっとも昔から神仏の高下正邪等見分け得るような教育は何人<なんぴと>も受けていないからである。そうして狐、狸、天狗、龍神等にも階級があり、力の強弱もあり、正邪もあるが、頭目になると驚くべき力を発揮し、大きな御利益をくれる事もあるから、信者も熱心な信仰を続けるが、多くは一時的御利益で、遂には御利益と禍いとが交互に来るというような事になり、永遠の栄は得られないのである。以上説くところによって、信仰の場合一時的御利益に眩惑する事なく、その識別に誤りなきよう苦言を呈するのである。

「天国の福音書」 昭和29年08月25日

天国の福音書