曽祖父

 岡田家は教祖が誕生したころでこそ貧窮の底にあったが、明治の初めごろまでは、橋場からほど近い山谷浅草町に「武蔵屋」という屋号で代々「質屋」を営み、三十数軒の家作(貸家)もあって、大変富裕な家柄であった。

 現在、国立国会図書館に保存されている『旧幕引継書(明治新政府が幕府から引き継いだ書類という意味の資料)の中の、『八品商名前帳』に質屋であったことが明瞭に記録されている。

 この記録書は嘉永四年(一八五一年)三月、江戸幕府が質屋、古着屋、古道具屋など古物を扱う八種の業者を調査のうえ、登録させたものである。これにより、犯罪がからみやすい古物商に対する監督を強め、治安の強化を図ったもので、いわばその台帳である。『名前帳』の「質屋之部」には
一 質屋 山谷浅草町 
  家持〈いえもち〉
 * 喜左衛門〈きざえもん〉
 と記されている。当時岡田家では、教祖の曽祖父〈そうそふ〉・喜左衛門が当主であったから、この文書と完全に一致するわけである。
 *振り仮名は編集者・挿入

 質屋を営むにあたっては、質屋組合に所属するための株を持たなければならず、社会的、経済的に何かと厳しい規制があった。したがって質屋を営むほどの家は、まとまった資産を有し、界隈の有力者と目される場合が多かったのである。

 同家の菩提寺は、荒川区三河島にある清瀧山・観音寺で、十一面観音を本尊とし、室町末期に創建された古刹として知られている。今もこの寺に残っている「過去帳」や「墓碑銘」によれば、江戸時代中期の宝永三年(一七〇六年)までの檀家の様子をさかのぼってうかがうことができる。幸いにも過去帳には、生前の名前とともに、住んでいた町の名を記しているから、それによって、文政の初め、すなわち、一八二〇年代に岡田家が山谷浅草町に移っていたことがわかる。それ以前は、吉原揚屋町に住んで、同じ職業の質屋を営んでいたと考えられるのである。

 岡田家の系譜
 記録に明記された家系で見る限り、代々の当主のうちで傑出した人物はといえば、教祖の曽祖父にあたる武蔵屋・喜左衛門をあげなければならない。

 伝えによると、この人はきわめて義侠心が強く、人望も厚く、金に困っている者には、損得を抜きにして、それこそ安い利息で金を貸し与えたようである。また、予備の傘をたくさん用意しておき、雨降りの時、通行く人で困っている者に貸したりした。また、冬の寒い日には、しばしば粥などの炊き出しをして、人々に振る舞った。喜左衛門が、このように誰彼なく隣人に親切で、人情に厚く施しをしたので、いつも二人や三人食客(客分として寄宿する者)が絶えたことがなく、みなから親しまれたそうである。その好々爺ぶりが偲ばれる。

 菩提寺には、坊主頭で柔和な顔立ちの喜左衛門の写真が掛けてあったが、第二次世界大戟の空襲で焼失してしまったのは惜しまれる。曽祖父・喜左衛門はよほど教祖に似た性格をもっていたらしく、後年、教祖は妻・よ志に向かって、よく「私には曽祖父がついている。」と語ったというが、人並以上に深い愛の心は、三代後の教祖にそっくり受け継がれたのであり、血脈は争えぬという感がする。