算盤と能率

 私は今日の日本人をみると、どうも算盤<そろばん>を無視する事と、能率についての余りに無関心である事で、それを今警告したいのである。もちろん右の二つは大いに関連があるから一緒に書くのだが、単に算盤と言っても、金銭上に関するもののみではなく、他の面にもそれが大いにあるからである。しかもこれは案外重要なものであって、この事に注意したなら、処世上大いに益する事は言うまでもない。この点に関しては、どうも日本人は案外無頓着であって、時間の観念が薄く、計画性がなく、行き当りバッタリ式の人がほとんど言っていい位である。という訳で、算盤を無視する結果無駄が多く、それが又能率にも影響するので、案外損する事が多い。その為仕事も面白くないから焦り勝ちになり、この不愉快が又能率に影響するという工合で、気付かないで大きなマイナスをしている。

 そこへゆくとかのアメリカである。恐らくアメリカ人位算盤をとる国民はあるまい。例えば戦争にしろ、極度に機械力を利用して、人命を損じないようにする行<や>り方である。今度の朝鮮戦争にしろ、敵と味方との人的損害を比べてみると驚くほどで、敵の損害百数十万に対し、味方の方は僅々<きんきん>十万に足りないという事である。又この間の太平洋戦争にしろ、日本人は肉弾を敵の軍艦に飛行機諸共ぶっつけたり、竹槍の練習したりする等、人命を粗末にする事甚だしいに反し、米国の方はどうであろう。たった数人の技師が飛行機一機を飛ばし、原子爆弾一個で一都市を全滅するというのだから、お話にならないのである。これも全く算盤をとるとらないの違いさであるから、大いに考えるべきである。それというのも日本人は今以て昔の武士的根性の粕<かす>が残っているとみえて、算盤を蔑視する傾向がまだ大いにあるようだ。これが今日及び今日以後の時代に即して、いかに不利であるかは考えるまでもない。しかも日本人中には今以て、面目とか、痩我慢<やせがまん>、御体裁などという空虚なものに囚<とら>われ過ぎる傾向がある。これが国家及び個人にとっての不利益は、割合大きいものがあろう。そうしてここで私の事を少し書いてみるが、私は宗教家に似合わぬ算盤を忘れない主義で、何よりも私のやり方をみればよく分るであろう。教修にしろ、御守にしろ、色々な会費にしろ、一定額を決めるようにしている。それで出す方も、宗教にあり勝ちの思召<おぽしめし>などの面倒臭さがないから気楽であり、只除外例として任意の献金は受けるが、これも強請<きょううせい>はしない方針になっている。このような行り方は恐らく今までの宗教には余り見られない処であろうが、これがいかに本教発展の有力なる要素となっているかは言うまでもない。

 右のような訳としても、もちろん細かい算盤は面倒であるから、大局的に見ての利害得失を忘れないようにしている。よく私の仕事振りをみてアメリカ式等と言うが、私もそう思っている。全く算盤と能率に最も重きを置いているからである。そうして私は日常生活の上でも、その日一日の大体のプランを立てておき、予期しない事等ある場合は、次の仕事で埋合わせるようにしていて、出来るだけ予定を狂わせないよう気をつけている。そんな訳で普通の人が一日がかりでやるような仕事でも、私は一時間位で片付けてしまう。私の仕事が余りに速いので手伝う部下などいつも面喰<めんくら>い、悲鳴を挙げている始末で、彼等は、明主様は特別な御方だから、到底真似は出来ないと弱音を吐くが、この考え方が大いに間違っている。もちろん私のようにはゆかないまでも、その人の心掛次第では、案外成績を挙げる事が出来るもので、断じて行えば鬼神も避けるという意気込を以て、ウンと行<や>るべきである。

「天国の福音書」 昭和29年08月25日

天国の福音書