神人合一の自覚

 取り調べは一段落した。教祖は翌六月一五日静岡の刑務所へ移された。戦前の弾圧時代から何度か警察の門を潜った教祖ではあったが、刑務所は初めての経験である。胸中暗然たる思いに塞がれた。しかし新しい独房は留置場に比べて清潔で、壁は白く、窓は大きく明るい。それに小さな炊事場まで付いている。ほっとした思いで窓の外をのぞくと、広場に囚人の作ったらしい紫陽花の花さえ咲きかけている。久しく牢獄に身を置く教祖の心には、明るい日差しと花の姿が痛いほど美しく感じられたのであった。

 その後なお細部の補足的な取り調べがあり、五日目の六月一九日、深更一一時ごろに教祖はようやく釈放になった。五月二九日以来、二二日間にわたる取り調べであった。釈放のさいにはつぎのようなエピソードが伝えられている。

 出所は事前に碧雲荘の方へ連絡があったので、執事ら側近奉仕者が、教祖の車で静岡刑務所まで出迎えに行っていた。最初は午後の七時か八時ごろ出所の予定になっていたが、教祖の出所をかぎつけて多数の新聞記者が表門に詰めかけていた。刑務官は混乱を避けるため、記者連を煙に巻いて出所時間を遅らせ、そっと裏門から釈放するという便宜を計り一一時ごろとなったのである。

 教祖は何一つ持たず、絞りふうの浴衣に草履ばきという姿で出迎えの車の人となった。多少のやつれは見えたが、二二日間の留置のわりには元気な足取りで車に乗り、
   「うちの者はみんな元気か。」
と自分のことよりも周囲の者に気をつかい、出迎えの奉仕者に声をかけていたほどである。

 すっぽかされた記者連は、地団太踏んで悔しがったが、あとの祭りであった。ただ某新聞社の記者のみは、途中十国峠付近で待ち伏せし、いきなりフラッシュをたいて写真を撮り、翌日の新聞の特種としたようである。車はいったん碧雲荘へ帰るように見せかけて箱根へと向かい、教祖は真夜中の三時半ごろ仙石原の知人宅へ落ち着いたのであった。

 ところで、静岡刑務所に収監中、神業上きわめて重要な神事が行なわれた。その前兆はすでに、庵原地区警察署にいた六月一三日から始まっていたのである。

 この日、教祖は朝から腹痛を催し、午後には猛烈な痛みになった。みずから浄霊をしていくぶん落ち着きはしたが、痛みは翌朝まで続いたのである。教祖は不思議に思って神にその意味を問うたところ、
 「これは大きい経給のためで、やむを得ないのだから、少しの間我慢せよ。」との答えであった。その時教祖は、翌日が奇しくも、昭和六年(一九三一年)の千葉県・鋸山山頂において天啓を受けたと同じ月日の六月一五日にあたることに気付いたのである。すなわち、この日を期して、霊界が夜の世界から昼の世界に変わる、新郷の第一歩であることを感得した日である。

 しかも教祖は同じ一四日の朝すばらしい夢を見た。雪のある富士山の頂に宮殿
のような大きな建物がある。そこへはいってあたりの雄大な雪景色を見ようとするところで目が覚めてしまった。昔から富士、鷹、茄子は吉兆の夢として喜ばれる。獄中にありながら教祖は、何か喜ばしい期待の心がわいてきて、腹の痛みも忘れてしまったのである。
 「何ごとか神業上の進展が図られるために、腹中が浄化されているのに違いない。」

 教祖は何ごとか心待ちにする心境になった。

 翌六月一五日の朝があけた。教祖の意識がしだいにとぎ澄まされてくるにつれて、一つの考えがはっきりとした形を取り始めた。それはみずからの腹中にある光の玉の神秘である。

 昭和元年(一九二六年)、神の啓示によって教祖は腹中に宿る光の玉を自覚した。後に教祖はそれが救いの光の根源であるとはっきり説いている。しかもそれから二〇年以上を経た六月一五日のこの日、その光の玉に最高の神の魂が天下ったことを、教祖は覚ったのである。

 この日の昼ごろ、静岡刑務所に移ったが、翌一六日は、朝方から食欲がなく、ようやく昼ごろになってコップ一杯の牛乳を飲んだ。格別なおいしさだった。これは生まれたばかりの赤児が乳を飲むように、光の玉に宿った神魂がしだいに育っていくことを表わした出来事であると、後に教祖は記している。このことについて、「一つの神秘」という論文の中で、

  「之から此神御魂<かむみたま>が段々御育ちになり、成人されるに従って、玉の光は漸次輝きを増し、将来大偉徳を発揮さるるに到るのである。」

と書いている。

 教祖はこの法難の時まで神示に基づいて神業を進めてきた。しかし留置中の神秘を経て、教祖の神格には大きな転換が行なわれた。こうして、光の玉はより充実を見ることになり、それまでにも増して大きな力が発揮されることとなったのである。それと同時に、神と教祖の関係は、より分かち難い直接的なものになった。神は教祖を自由自在に動かす。そのために、教祖の思うがままに行なうことが、すなわち神の意志であり、神の経綸そのものとなっていくのである。このことがあってから、教祖は一層強く、みずからが神と一体化する神人合一の立場に立つものであるという自覚を深めていくのである。

 このように経綸上きわめて重要な神事が、こともあろうに、身辺には一人の弟子すらいない、獄中においてひそかに行なわれたのであった。

 この法難は教祖自身が屈辱を受けるという、教団にとって忘れることのできない一大事件となった。信者の動揺も大きく、戦後、破竹の勢いで進展してきた教線は、一時停滞のやむなきにいたったのである。しかしこのような大きな苦難のさなかに、教祖がみずからの神格の高まりを強く自覚したことを思えば、すべては神の経綸に基づく神秘な仕組であったことが知られるのである。

  大神は珍<うず>の神業ひそやかに成さしめんとて牢獄<ひとや>選みぬ

 教祖は出所後、心身の衰弱を癒すため、しばらく神務から遠ざかり、箱根で静養を続けた。信者との面会も取りやめ、口述筆記も休んで、音楽に耳を傾けたりしながら、静かに日々を送ったのである。やがて、留置中の衰弱がしだいに瘉えると、教祖は、経書と横書の「散花結実」という書一〇〇〇組を書いて信者に与えた。喜ばしい神事が苦難の中で成就したように、実を結ぶためには花は散らなければならない──このような経綸の神秘が込められた書であった。

 法難の発端となった昭和二五年(一九五〇年)五月八日、側近の執事を勤めた井上が逮捕された後、その代わりを勤めたのは、かの総長、川合輝明であった。代わる代わるやってくるゆすり、たかりの応対をするのがおもな仕事であった。当時、川合は弱冠二五歳であり、おもに関西方面で布教していたが、教祖の身近で奉仕するのは初めてであったので、その心構えを尋ねた。
すると教祖は、
 「私の所には心構えなんてないよ。」
と言う。
 「ご用させていただきたい、修行させていただきたいという気持ちでおりますが。」
と問うと、
 「その時その時に必要なことに徹していけばいいのだ。あれこれと考えることがいけないのだ。私の言う通りにやってくれればいい。」
という返事であった。
 「では何も苦しむことはないように思えますが、それでよろしいんでしょうか。」
と、さらに尋ねる川合に、教祖は、
 「そうだ。それを天国的修行というのだ。しかし私の所へ来る者は、たいてい金を無心に来るんだから、それを見抜いて先手を打つだけの頭は働かなければいけないよ。」
と諭したのである。

 教祖自身が留置され取り調べを受けたのはそれから間もなくのことである。約三週間の留置期間を経て、静岡刑務署から釈放され、箱根でしばらく静養した教祖は、熱海に帰り、留守番をしていた川合たちに、
 「信者は動揺してはいないだろうか。私の苦労は神様からやらされているのだから何でもない。しかし信者は真相がわからないので心配しているだろう。」
と言った。まだまだやつれが残るのに、なお信者を気づかうその愛情に、みな一様に胸を熱くしたのである。

 川合は昭和一八年(一九四三年)、早稲田大学在学中に重症の肺結核となり、死を待つばかりのところを政われた。中島一斎のもとで浄霊を受けるうちに、しだいに健康を取り戻し、教祖の教えに接して新しい世界に目を開かれ、神業一筋に身を捧げる決意をしたのである。昭和二五年(一九五〇年)教祖のもとへ奉仕に行った時には、天国大教会直心分会(後の「大浄教会」)の会長を勤めていた。教祖の在世中から関西方面を中心に布教に挺身するとともに、理事として活躍し、後、教団管長、総長を勤めるのである。