キーワード:「先祖」

焦らず、怒らず、怠らず

「あなたは先祖の面汚しと言われたそうだが、先祖の面汚しかどうかは霊界に行ってみればわかる。先祖は自分たちの残した子孫の中から神様の御用をする人が出ると、たいへん誇らしい思いをされるのです。宗教による救いの大きさ、深さがあればこそなんだから、ありがたいという心で受け止め、御用の人になることを自分でも誇りに思いしっかり御用に励みなさい」

先祖供養の浄霊

 このような場合、患者の先祖の霊が憑いている場合が多いという。總斎が直接祖霊を浄霊によって救うこともあるが、信徒自身が御用をすることによって祖霊を救い、その結果自らを救うこともあるのである。

「普通の人は、首が転がった、腕が転がった、そんなものを見る人は少ない。あんたの先祖は全部下へ落っこっている。だから、これからの一生は人のために尽くさなきやいけない。この世で幸せになろうとは思うな」 

 と、今までの笑顔はどこへやら、突然厳しい顔で堀籠を諭した。總斎は心の中を見抜くだけでなく、先祖のことまで見通していたのである。

 總斎はご先祖のことに関しては、献上品の意味について触れながら次のように説明している。当時はご参拝の時、どの信徒も玉串料のほかに、それぞれ献上品を必ず持っていくのが習いであった。總斎は、「玉串料は自分が神様に差し上げるもの。献上品とは、神様に対して祖先からの手土産として差し上げるものだ。しかし、先祖も子孫の肩に乗って参拝が許されるのだから、明主様にご面会の時は先祖にも『おひかり』をいただかせるために、先祖も一緒に参拝してくださいと仏様に挨拶して出かけるとよい。その時、献上品を持参して受付に先祖から神様へのお土産ですと届けると、先祖も神様に差し上げることができるわけだから、それだけ喜びの中で『おひかり』がいただけるのです」 

 と述べて、總斎自身も土地の特産品、珍しい物、初物など次々とご神前に献饌したという。これで先祖も大手をふって参拝できることになるのである。

 神様への礼節が先祖への供養ともなる。御用という明主様へのご奉仕と、神様への献上品が、先祖を救い、ひいては自分自身をも救っていくというのである。

海外流出を防止

 周知のように、第二次世界大戦直後の日本は敗戦という未曽有の出来事に直面し、大変な混乱の時期が続いた。貴族、財閥、地主などいわゆる特権階級が一挙に転落したのもその一つであった。当時、激しいインフレの嵐が国中を吹き荒れ、そのうえさらに新円切り替え<*>や財産税などのため、人々は経済的苦境に陥ったのである。その結果、土地を売る者も多く、また、先祖伝来の秘蔵していた書画・骨董のたぐいを手放す者も少なくなかった。

江戸っ子と伊勢屋

 しかし、一般にはそれほどではなく、三代以上にわたって江戸に住んでいるものは、みずから江戸っ子と称したようである。先祖から代々江戸の下町浅草に住まっていたので、教祖自身も江戸っ子をもって任じていた。

 「本数に喧嘩吹っかける奴は相手にならずばなるめえ。先祖の幡随院長兵衛に申訳ねえから。」

出生、そして家族のこと

 渋井家の先祖には、管領上杉家に仕え、大宮・堀之内の城主であった渋井越前守や江戸中期の儒者渋井大室がいる。渋井家の先祖については、江戸中期に出版された『先哲叢談』に記載されており、また『漢学者伝記集成』(名著刊行会・昭和五十三年)に、渋井大室の事歴が記載されている。渋井總斎は、ある霊能者から、渋井大室の生まれ変わりと聞かされていたようであった。

 渋井家は三つに分かれ、本家と二つの分家で構成されていた。總斎の家は分家ではあるが、本来は、長兄であった渋井總斎の先祖が家督を継ぐべきであったという。しかし、ある時期に家の都合があって、家督を弟に譲って分家したといわれる。

 總斎は、長兄の会社での業務を一通りこなすことができるようになると、新しい仕事を求めて転職した。總斎の妹・マスの夫が洋服の仕立、裁断等を行なう洋服商を営んでいたので、興味を覚えたのである。彼は以降、その仕事を覚えるまでマスの家で居候をしながら洋裁の学校にも通った。この話は總斎の身内に伝わっており“總三郎はたいへんに器用で、物覚えがよく、洋服の仕立裁断などを早く覚えたので、教えた人がその呑み込みの早さに困るほどであった”という。のちにこの洋服縫製業が總斎の定職となる。總斎は明治四十五年、二十代もまだ半ばの頃に、明主様と因縁浅からぬ浅草で初めて洋服店を持つようになった。しかもその店の最初の屋号を武蔵屋と名づけた。明主様のご先祖の屋号が同じ武蔵屋だったことを思えば不思議な感に打たれる。屋号は次いで日東屋と改称された。その後、店を大正八年頃に新宿の角筈に移し、“大内”と名乗るようになったのである。当時の名刺には、

明主様とのご旅行

 最初一族がここへ来たときは食糧がなく、仕方なしに葛の根を食ってわずかに露命を支えていたそうである。そうして驚くべきことはこの村には病人が全然ないということで、現在大酒のため中風になった爺さんが一人あるだけだとのことである。結核などは勿論一人もない。彼女のいうにはこの土地のものは近くの日光から先へは絶対縁組をしないそうで、まして東京などには行く者はほとんどないとのことである。それらは何のためかというと東京などへ行くと肺病になるからだという。ところが面白いことにはこの村は無医村で絶対菜食である。附近の川に山女や鮎などいるが、決して捕ろうとはしない。なぜなれば先祖代々魚を食ったことはないからで、別段食いたいとも思わないというのであるにみて、いかに徹底した菜食村であるかが知られるのである。以上の事実によってみても無医薬と菜食がいかに健康に好いかという事実で、まったく私の説を裏書きしており非常に面白いと思った。(以下略)(『天国の礎』宗教 下)

(三)字句

この神は日本人の先祖である』と仰せられた。

『字のとおり言えば、皇室のご先祖は伊邪諾尊である』と申されたが、ここでは言外のお心持をいただき、広い意味にとり、人類の生命の主である、清く尊い祖神と考えるべきであろう。

四 一葉の松葉

 明主もいうように、まず買いはじめたのが終戦直後からであった。なにしろ日本はかつてない世の中の変り方で、誰も知るように、華族や富豪や財閥などの特権階級がいっぺんに転落してしまったのであるから、たちまち経済的苦境におちいり、大切に秘蔵していた先祖伝来の家宝である書画骨董の類を手放さなければならなくなったからである。したがって珍什名器がずいぶんでたが、値段もやすかった。なにしろその頃は食うことがさきで、骨董品などに目もくれるものなどは、ほとんどなかったからである。 その上、特権階級は巨額な財産税を課せられたのであるから、どうしても手放さなければならない窮地に追い込められた。そこで泣く泣く売りはらったのであるから、こっちでも助けるつもりで値切らず、ほとんどいい値で買ったものである。

五 信仰と宗教

 いろいろ苦労や心配事がつずくので伺うと、「あなたの家は、先祖から罪障が多い。苦しむのはそのためだから、一生懸命に罪滅しをしなければいけない。しかしあなたはまだ信仰心が足りないから、苦しみが絶えないのだ」とおどかす。祖先の罪障を背負わされたり、信仰を強要されたんじやたまったものじゃない。あまり苦しいから信仰をやめようとすると、きまって「あなたがこの信仰をやめれば、一家は必ず死に絶える」とおどかされるので、抜けることもできずに、可哀想に蟻地獄みたいな信仰地獄、宗教地獄にずるずるとおちこんでいってしまう。宗教の名によって、生命をおびやかしたり、おどかしたりするのはよくない。

昭和二十三年十一月二十八日(8) 御講話 光録01

 〔 質問者 〕いままで神道だった人がお道に入った場合、御先祖はどのようにお祀りすべきでしょうか?

【 明主様 】お祀りはそのままでよろしい。先祖の代から神道ならいいが途中から仏立講みたいに過去帳にすると先祖は怒りますよ。あれは非常に間違っている。……霊友会では他人の先祖をよく祀るがあれはいいですね。そういう設備もあったほうがよい。私のところでも他人の仏をだいぶ祀ってます。