(三)字句

*1高天原
 
 一般にはタカマガハラと読んでいるが、明主様はタカアマハラと唱えるように、「マガ」の言霊はいけないとお示しくだされた。したがって、その点をよく注意して奏上しなければならない。また、高天原の所在についても、古来いろいろの説があるが、明主様は、『高天原とは一ヵ所という説と、地球上という説とある。すなわち、全大宇宙に神がいっぱいいられる(つまっている)という説である』

 『高天原はどこにでもある。つまり、いちばんよい場所のことで、清い尊い所をいう』『仏教では、高天原のことを都卒天』『天というのは、人間でいえば頭、一軒の家では床の間になる。また、床の間へ神様を祀り、朝夕礼拝すれば、その床のある部屋全体が高天原になる。また、一府県なり、一地方なりでもそのいちばん清浄な所が高天原で、それはこれからほんとうにそういう高天原ができるのである』とお教えくださっているのである。だからこの場合は、神界の最高の場所と考えればよいと思う。

*2神漏岐神漏美命<かむろぎかむろみのみこと>
  「カムロギ、カムロミ」とは、難解な言葉で諸説があるが、「カム」=神という言葉に、語調を整えるために「ロ」を添えたものであろう。つまり、キとミの神ということになる。岐<キ>と実<ミ>は、日本神典では男女の性別をあらわす語として  使われている。
  
 明主様は、
  『「神漏岐、神漏美」とは、父と母、霊と体、右と左、男と女、陰と陽とにな
る』
  『これは夫婦といってもいい』『これから伊邪諾、伊邪冊の神となるのである。
この神は日本人の先祖である』と仰せられた。
  
 しかし、それでは日本神典にあるどの神様を指すかということになると、これまた諸説があって、帰一することがない。だが、明主様のお言葉の中に、伊邪諾の神のまえに、高皇産<たかみむすぴ>、神皇産<かむみむすぴ>の神の御名をあげておられるところがあるし、常識的に考えても、「命以<みことも>ちて」すなわち、お言葉、ご命令をされた神様として、この高皇産霊、神皇産霊の両神を考えることが妥当と考えられるのである。

*3皇御祖神伊邪諾尊<すめみおやかむいぎなぎのふこと>
 
「スメ」は、神聖清浄を意味する祖神の尊称である。明主様のお言葉によれば、
『字のとおり言えば、皇室のご先祖は伊邪諾尊である』と申されたが、ここでは言外のお心持をいただき、広い意味にとり、人類の生命の主である、清く尊い祖神と考えるべきであろう。

*4筑紫<つくし>の日向<ひむか>の橘の小戸<おど>
 
「筑紫の日向の橘」がどこを指すかについても、諸説があって極まるところがない。これについて、いろいろあげつらうよりも明 主様のお言葉に、『これは土地の名で、九州であろう』とあるの に従わねばならない。

 そしてつぎに「小戸」とは、「狭い水門」の意味で、河川が海に注ぐ所、すなわち、河口のことである。そこで は汐の干満によって、あるいは河の水が海に流れ出、あるいは海の水が河に流れ入る。そのような出入口で、しかも、その出入口が狭くなっているために、水の動きが瀬をなして、ややはげしい所である。

*5阿波岐原

  檍<あはき>という木の生い茂っている原ということであるが、「阿波岐」(檍)は青葉木の略で常緑樹のこと。橿<かし>の木の古名といわれている。

*6御禊祓<みそぎはら>ひ
 「みそぎ」とは“身滌<みそそ>ぎ”または“水注ぎ”すなわち、水によって、心身の罪穢を洗い滌ぎ、罪穢を浄める行事で、その起源は、記、紀二典の記述にも見られるごとく、遠く神代にもさかのぼり、古代の人びとの信仰生活の中に溶けこんでいたように思われる。

 「みそぎ」とはまた“霊注ぎ”とも考えられ、神の霊光が身心に 注がれることによって”“気枯れ”の状態で萎<な>えしぼんでい た霊体に活力を蘇<よみがえ>らせ、みなぎりわたらせる行事とも 考えられる。

  同様に「祓ひ」も神代からの宗教行事であって、その意義は、 祓ひは“晴霊<はらひ>”で本来浄らかなるべき霊性を包み覆っている罪穢を、払い浄めることで、これによって、人(霊止<ヒト> )に内在する霊性は活力を取り戻すのである。つまり“張る 霊<ひ>”の状態に復活更生させ、さらに進展させるのである。かくて祓の行事は、日本神道にては、大切なものとして、毎年六月、十二月の大祓の行事やその他に伝承されてきたものである。 

 かくのごとく、御禊祓いの神事行事によって、浄まるということは、日本神道の中心であり、「天津祝詞」の核心たるべきものである。
 
さて禊の場合、水ばかりでなく湯も用いる。祭祀に奉仕する神職祭員が、主として湯によって禊するのもこのためである。思うに祝詞によくある「斎<ゆ>まはり清まはり」のそ の斎<ゆ>こそ「湯」の原義とも称すべきであろうか。

 しかも、天地霊妙の霊気を含んで自然に湧出する 温泉による禊こそ、湯によるものの禊の最たるものといわねばならない。温泉すなわち「出湯」の「出<いず>」は、“厳 <いず>”または“稜威<いず>”の意であり、神の光の尊厳と強さを意味するものである。さればこそ、“霊泉”と言われ“神湯”と讃えるもののあることも宜<むべ>なるかなである。

 その「いず」の国熱海は、古く霊地として有名な箱根とともに 温泉をもって有名な所であるが、この両地に本教が聖地を定め、地上天国の雛型を造営していること。しかも、両地とも神苑内にも霊泉神湯が湧出して、神前に詣でる者が、ここに御楔祓いをすることができることを思うとき、教祖明主様の偉大なる神智霊覚の前に拝跪<はいき>礼拝せざるを得ないのである。明主様がこよなく温泉を愛され、一日、朝夕二度入浴されたことも、何か故あることと思われる。神湯霊泉に浴し、湯によって心身を清め、神州清潔の民となった信者たちが、御神前に誠を こめて、「祝詞」を奏上するとき、
 
 身も魂も神の光に浄められ
 天国に住む吾となりける

 のご讃歌のお心が、ここに如実に実現するのである。

*7祓戸<はらいど>の大神等<おおかみたち>
 
 明主様のお言葉に、『そのときに四柱の神が生まれた。みんな総動員で浄化する』とあり、また、『祓戸四柱の神様は、瀬織 津比売大神<せおりつひめのおおかみ>、速開都比売大神<はやあきつひめのおおかみ>、気吹戸主大神<いぶきどぬしのおおかみ> 、速佐須良比売大神<はやさすらひめのおおかみ>の四柱の神様で階級はなく、どこへでもいかれる神様で、竜神を自由に使える神様である。すなわち、お掃除の神様である』と、お教えいただいている。

*8天津神国津神<あまつかみくにつかみ>
 
 天系の神々、地系の神々ということで、この解釈についても、諸説いろいろあるようであるが、要するに天津神界、すなわち、 天上神界にまします神々、国津神界、すなわち、地上神界にまします神々ということである。

 なお、祝詞や神言の中によく天とか国とかいう字が使用されているが、現在のように、国を国家と解するものではなく、国はたんに天に対する地という意味であった。したがって、天津神、国 津神も国家の神ということではなく、いわゆる天神に対する地祗<ちぎ>という意味である。

*9惟神霊幸倍坐<かむながらたまちはえま>せ
 
 明主様の御教えによれば『「惟神」というのは神様に従う、神様のお心のまにまに、神に倣うということであり、「霊幸倍坐せ」は魂の幸が倍になること、魂の辛が倍になる。だから魂の倖せを多くして魂をふやしていただきたいということで、神道で「御霊<みたま>のふゆを幸<さきは>ひ給へ」というが、これは 魂を大きくふやしていただきたいということで、だから同じ痩せたのと太ったのとがあるように、魂にも痩せたのと太ったのとがあり、魂は太っていなくてはいけないのである。──よく物 に怯えたり、萎縮する人があるが、これは魂が痩せている。恐怖症などは入信すると治る。──「図々しい奴」は魂が太っていると思うかもしれぬが、これは動物的に太っているので質<たち>がわるく、神様の方のは質<たち>がよくて 太っているのである』とあり、さらにまた、『「惟神霊幸倍坐せ 」は非常にいい言葉である。昔から神道で、惟神の大道とか、神のまにまにという──神様にお任せしておく。非常にらくで結果がいい。──神は霊であるから霊の幸をくださるのである』

 というお言葉がある。銘記すべき貴い御教えである。