秋期大祭御言葉
いつもいう通り、キリストは天国は近づけりといい、釈尊はミロクの世が来ると言ったが、どちらも予言であって、御自身が造るとは言われなかった。ところが、私は右の予言を実現すべく、神様から委任せられたのであるから、全く予言者の予言通りの事を具体化し、証明するのである。故に必ずや地下ではない天上におられる二大聖者も、大いに満足されお喜びになる事と思うのである。
本教と私
ここで私という者について、わずか言わして貰うがまず私の経歴からいえば、無論世間ありふれた平凡人である。しかしながら、私は又人類史上類例のない不思議な運命を有っている。と言うのは既に世界に知れわたっている大宗教家としての、釈迦や、キリストや、マホメットなどとは全く異う救世の大使命を行うべく、この世に生れさせられたのである。というのはそれら偉人の出来なかった事が、私には出来る力を与えられている。もちろんこれは現実で信者諸君の知る通りである。
特に最も自分で不思議に思う事は、私は霊を行使して信者に病気を治さしているが実によく治る。医学で一月位かかる病気でも、一日か二日位で治る事がよくある。そればかりではない。自分の病気も自分で治す事が出来る。私のかいた文字からはその文字の意味通りの活動が起る。又私はあらゆる病源が根本的に判る。それによると現代医学の病理解釈など気の毒な程低いと思う。私から言えば医術とはいえない、単なる苦痛緩和法でしかないから、まず今のままでは病気を治す医学とはならないであろう。彼のキリストを初め種々の聖者が病気に対する奇蹟を行ったが、そのほとんどは一人対一人のそれであるから、幾億の民衆を救う事は到底出来ない。従って全人類を救うとしたら、治病の力を一人一人に無制限に与えなくてはならない。それを私は今現に実行しつつ驚異的成果を挙げている。何よりも本教の発展がよくそれを物語っているといえよう。この事は曩に述べたごとく、キリストでも釈迦でも出来なかった神業である。
大乗と小乗
まず根本から説いてみるが、大乗は緯で小乗は経である。すなわち大乗は水で、小乗は火である。だから大乗はどこまでも拡がるから無限大である。小乗は深くして高くはあるが狭い事になる。たとえばキリスト教は大乗だから世界的に拡がったが、それに引換え仏教は小乗だから拡がらない。孤立的になる。又大乗は唯物的で、小乗は精神的であるから、キリスト教によって白人文明は物質的に発展したが、仏教は精神文明であるから隠遁的(いんとんてき)で、一時は発展したが漸次衰えつつある。
又卑近な例ではあるが、日本が米国に負けたのは、日本は火でありアメリカは水であるから、どうしても火の日本は水のアメリカに消されてしまう。以上のように今日までの世界は、火の経と水の緯とが対立的であった。これについて今一つこういう点も見逃す事は出来ない。それはかの共産主義も火であるから、赤い色である。とすればこれもアメリカの水と対立している訳である。だから最後に世界は、経と緯と必ず結ぶ事になる、すなわち十字形である。この十字形文化こそ理想世界の完成であって、キリスト教の十字もそれを暗示したものである、なるほどキリストの受難である十字架も、そういう意味もあるが、これは小さい。神ともあろうものがそんな小さい意味だけではない、右のような大きな意味も示唆している事を知らねばならない。
『地上天国』十九号-巻頭言
右のごとく、この大難関が我が国を見舞う時が来るとしたら、どうすればいいかと言う事である。この場合もし絶対神の御加護がないとしたら、到底安心して生き抜く訳にはゆくまい。信ずるものは幸いなりというキリストの聖言は、今更ながら我等の胸をうつのである。
宗教文明時代(上)
ところが、その理屈は分るであろうし、誰も否定する者はなかろうが、肝腎なのはその実現である。これこそ進歩した現代文化を以てしても、到底可能性のない事は今までの経験によっても明かである。何しろ昔から宗教家、哲学者、教育家等幾多の傑出した人達が、その理想の下に努力精進して来たにかかわらず、今以て何等の見込すら立たない現状であるからである。見よ今までの方法はと言えば、学問の力とそうして宗教の力との二つであった。前者は已に言い尽したから、後者についていうが、今日まで現われた大宗教家としてはキリスト、釈迦、マホメットの三大聖者であり、又他の多数の偉大なる宗教家達もあったが、時期の関係からでもあろうがその発揮された力には限度があった、とはいうもののその当時は固より、今日に到るまで大多数の人類は、その人達を介して、神仏の恩恵を受け、大いに救われては来たが、私が現在唱えるところの宗教文明というごとき、全人類的なスケールの大きいものではなかったのである。としたら私の救世的目的の、いかに規模の大であるかが想像されるであろう。
宗教文明時代(下)
以上によってみても悪の世界は没落の前夜であり、善の世界の黎明である事は、一点の疑いない事実である。かくのごとき世界の大転換は、何万年以前より神は既に準備され給うたので、言わば歴史的プログラムである。すなわち、キリストの曰った「天国は近づけり」の予言も「信ぜよさらば救われん」の警告も、この事でなくて何であろう。としたらこの文こそ、天国の福音と言わずして何ぞやであろう。
今年の予想
キリストのいった「天国の福音をあまねく宣べ伝えらるべし、しかる後末期到る」とは、この事でなくて何であろう。
ハワイ日刊新聞「ヘラルド紙」への寄書
そもそも、本教のモットーとするところは、病貧争絶無の世界、すなわち地上天国を作るにあって、彼のキリストの予言である「天国は近づけり」という事も、釈尊のいわゆる仏滅後ミロクの世が来るという事の両聖者の言は、天国もミロクの世も御自身が造ると言われたのではなかった、しかし私は私自身天国を造ると宣言するのである。いわば右の二大予言を私によって実現される訳である。そんな大きな事を言うとしたら、万一実現されない暁、私は大山師か、誇大妄想狂となり世を欺瞞する怪しからん人間として、社会から葬り去られるに違いあるまい。
ところが、その可能を絶対確信している私は今現に着々実行しつつ素晴しい成績否奇蹟を表わしつつある。医学で治らない、医師から死の宣告を受けた病人を、私の弟子が薬も機械も使わずに全治さしている。私の弟子はキリストが顕わしたと同様の奇蹟を、日々各地において無数に表わしつつあるのである。以上のごとく本教信者になれば病なき人間となり、病気の心配はなくなるばかりか、人の病気も治せる力の持主になる。又結核も伝染病も感染しないばかりか万一感染しても雑作なく治してしまう、だからばい菌など全然問題とはならない。故にこの事が判ったとしたら、病なき世界の実現は何人といえども疑い得ないであろう。
なるほど、世界三大聖者としてキリストも、釈迦も、マホメットも、その業績の跡をみれば人類救済に対し、いかに高く評価してもよい程のものである。これによって長年月に渉り、人類の不幸はいかに軽減されたか分らない程である。しかしそれは地上天国出現の時までの、言わば繋ぎ的の救いに外ならない。しかるにいよいよ時到って、人類は永遠に救われ平和歓喜の世界、いわゆる地上天国出現となったのである。又世界的文化の大転換とも言える。
これを一層判り易く言えば、真善美完き理想世界が今や呱々の声を挙げんとしているのである。それについては一度は地球上の大掃除が行われなければならない。そうして天国建設となるのである。いわゆる破壊と創造が如実に行われるのである。この破壊をキリストは世の終りといい、釈尊は仏滅と言われた。この時メシヤ降臨されると曰い、ミロク下生とも曰われた、とすれば右のごとき大破壊が、第三次戦争でなくて何であろう。しかしこれ等のすべては非常に神秘であって、経綸上未だ軽々に言明する事は出来ないのが遺憾である。
アメリカと正義
ところでアメリカは、他の国家の意向などに頓着なく、あくまで初心を貫こうとするその正義感は素晴しいものであるもちろん同国は強大な軍備が後楯となっている為もあろうが、それ以上にアメリカの伝統的正義感の絶対性である。この正義感こそ何によってなれるかというと、もちろんキリスト教の信仰からである事は、最近発表されたト大統領の教書にしても、信仰が味方である事を強調しており、又マ元帥の重要な宣言の中にも、神という文字が必ずあるにみてうなずかれるであろう。
悪に勝つ
由来、昔から宗教なるものは、絶対無抵抗主義を基本として発達して来たものであって、かの世界的大宗教の開祖キリストさえ「右の頬を打たれれば、左の頬を打たせよ」と言われた事や、又キリスト自身がゴルゴダの丘において、十字架に懸けられた際、隣の柱に縛られていた一人の泥棒があったが、彼はキリストにいった「オイ、イエスよ、お前は先程から何か口の中で唱えながら、悲しそうな面をしているが多分お前を罪人にした奴が憎いので、呪っていたのであろう」するとキリストは「イヤ、そうじゃない、俺は俺を讒言(ざんげん)した人間の罪を、赦されたいと父なる神に祈っていたんだ」と言ったので、泥棒はあぜんとしたという有名な話があるが、これらをみても、キリストはいかに大きな、愛の権化であったかが判るのである。
以上のごとき例によってみるも、確かに神の愛、仏の慈悲は、人々の心を捉え、それが敬仰の原となっているのは、いうまでもないが、その結果を批判してみると、一概にはその是非を決めかねる、というのは、釈尊やキリスト没後、二千有余年も経た今日、尚邪悪はいぜんとして減らないどことか、むしろ殖える傾向さえ見らるる事である。善人が悪人に苦しめられ、正直者は馬鹿をみるというような事実は、昔から今に至る迄さらに衰える事なく、文化の進歩と、この事とは全然無関係であるとさえ思えるのである。只文化の進歩によって、悪の手段が巧妙になったまでで、その本質に至っては、いささかも違うところはない。現在としては法の制裁の場合、わずかに暴力が伴わなくなったのみである。しかしそれだけ事柄によっては、深刻性が増したとも言えるのである。