夜昼転換
この「霊界における夜昼転換」を感得した教祖は、イエス・キリストの言った「天国は近づけり」も、また、釈尊の「五六七〈みろく〉の世」も、この昼の世界到来の予言であったことを明瞭にとらえるとともに、過去の諸宗祖が単なる予言にとどめていたことを現実に成就する時期が非常に近づきつつあることを覚ったのである。さらに、
浄霊の確立(その二)
すなわち、霊界が昼になり、光が強まるにつれて、いっさいの正邪善悪は白日のもとに照らし出され、それ相応の結果がもたらされるからであり、各人は今までに犯した罪積れを清算すべき時を迎え、償いを課せられる。これをイエス・キリストは「最後の審判」、「世の終わり」といい、釈迦は「仏滅」、「法滅尽」と言った。
千手観音像
教祖は前日、床の間に坐った時に、すでにある種の予感を感じていたが、やはりこの写真には目をみはらざるを得なかった。それまでに欧米諸国や日本の霊写真を数多く見たことがあったが、多くは人間の死霊である。まれにキリストの写ったものがあっても、トリック写真であることが歴然としていた。しかしこの霊写真の真実性は疑いようがなかった。そして、いずれか、さだかでない遠方に実在する画像を一瞬のうちに写し出すその力が、今後どのような奇蹟を現わすことになっていくのか、それを思えば無限の希望がふくらむのであった。
獅子吼
釈迦〈しやか〉が慈悲を説〈と〉き、基督〈キリスト〉が愛を説いたり、又種々〈いろいろ〉な聖者が人間に道を伝へ、よく説いたが、説いた事は説いたが、それを行はせる力がなかった。相当に行はせたか知れないけれど、全部はとても、世界人類全体には行はせる事は出来なかった。その為に、悉くが予言や、理想に止ってしまって、その目的の世は、今日迄実現されなかったんであります。そうして今日迄に、人類世界が甚しく、堕落し混乱したのは、つまり、その宗教や、道徳に相当の力はあったが『絶対の力』がなかった。言はば、力が足らなかった為めに、悪に負けたんであります。
光を求めて
昭和二六年(一九四一年)に、たまたま知人の勧めで浄霊を受けたところ、今まで経験したことのない爽快感に驚喜し、さっそく、中島一斎のもとで入信、やがてキリスト教の信仰も、中学教師の職も捨てて専従の道にはいったのである。
「会食会」の名のもとに
基督<キリスト>も釈迦も再び生れ来よ汝と吾との力試さん
開館
*ユダヤ教、キリスト教、イスラム教などは、当初、芸術を美の誘惑として拒否したことがあった。しかし、やがてこれらの宗教への帰依の心から優れた芸術文化が花開いたことは周知の事実である。教祖は、この後の時代のことを言っているのである
光を受けて
キリストの奇蹟を今に顕はしつ世人を救ふ人造るわれ
単行本
「そもそも全人類が要望する最大にして最後の目標は何であるか、それは一言にしていへば幸福そのものであらう。これに対し否定する者は一人もあるまい。しかしながら幸福を獲んとする者も、既に幸福を得てそれ以上を持続せんと欲する者も切離す事の出来ないものは、何といっても『身体の健康』であらう。ナザレの聖者キリストは払った。『爾<なんじ>、世界を得るとも生命を失はば何の益かあらん』と、うぺなる哉かなである。」
メシヤ降誕仮祝典
*通常の解釈によれば、メシヤは英語のMessiahであって、ヘブライ語の「マーシアッハ」、アラム語の「メシーア」に由来するとされている。その場合、本来の意味は、「油をそそがれた者」であると言われる。神によって「王」と定められた者は、聖油を頭にそそがれる儀式を受けたから、この言葉は世俗的には「王」を意味するものである。ところが、ユダヤ教やキリスト教の終末思想(この世界に最後の破局が到来し、つぎに人類の新生、世界の復興があるとする歴史観で、仏教の末法観に通ずるものがある)と関連して、世界破滅の時に、救済主が現われて、世界を救い、再生させる。その救済主を「メシヤ」と呼び、世俗的な王という意味よりも宗教的な意味合いの濃い言葉となった。仏教では「弥勒仏」がこれに妥当すると思われる
「メシヤといふのはヘブライ語〈*〉ですからちょっと日本語には解し難い。意味は救世主、救ひ主といふ事です。キリスト教の人は、(イエス・〈**〉キリストが救ひ主だと信じてゐるが、(イエスは)〈**〉本当は贖罪主〈***〉であって、救世主とは大変違ふのです。(贖罪主は〈**〉)万民の罪を贖った人、罪の代表になり生命をギセイ』にして初めて許された人ですが、救世主の方は許されるのではなく許す方です。まあ時期の進むにつれて話しますよ。」
このメシヤの解釈は、これまでユダヤ教、キリスト教の専門学者の誰もが考えることのなかった色読(体読と同じ意味で、表面的な文字の読みに終わらずに、本当に心身全体が納得するまで徹底して深く、その意味を読みとること)の結果である。本数が一時期、世界救世〈メシヤ〉教と称したのも、こうした教祖のメシヤとしての自覚に基づくものと受け取ることができるのである。
宗教的声楽曲で「聖譚曲」と訳されている。ヘンデルの「メサイア」はキリストの降誕・受難・復活の三部、五三章から成り、一七四二年に作られた