メシヤ降誕仮祝典

 こうしたさなか、教祖の肉体に、神秘な変化が起きた。
 その一つは、教祖の左の掌に五本の筋が現われたことである。その一本一本の指に、指先から付け根まで、五本の縦皺が鮮やかに刻まれていた。

 あまりの不思議さに、側近奉仕者は、長年研鑽を積んだ観相家にこのことを話して、何を意味するかと尋ねた。その答えの結論は、「神様が現われたことを意味するものである。」ということであった。教祖も浄化中、おりにふれてみずからの手をじっと見つめていることがあり、そこに大きな意義を見出している様子であった。

 第二の神秘は、教祖の髪に現われた。教祖の頭髪は若い時代から、すべて銀色に近い白髪であったことはすでに記したが、掌の筋と時を同じくして、側頭部の鬢の後部に、三か所、子供の頭髪のような黒髪が生え始めていた。理容師の三枝は、二〇年以上にわたって人の髪を見てきたが、このような不思議に出会うのは初めてのことであった。

 六月五日、教会長をはじめ、おもだった資格者を熱海の碧雲荘に招集し、短い時間であったが、教祖との面会が行なわれた。これは四月の浄化以来初めてのことであったが、その時教祖は、
 
  「メシヤ降誕と言ってね、メシヤ〈*〉が生まれたわけです。言葉だけでなく事実がそうなんですよ。私も驚いたんです。生まれ変わるというんじゃないですね。新しく生まれるわけですね。ところが、年寄りになって生まれるのは変ですが、いちばんおもしろいのは、皮膚が赤ん坊のように柔かくなる。それからこのとおり、髪の毛が生まれたと同じような——床屋がこれを見て、子どもの頭髪だと言うんです。だんだん白いのがなくなって、黒いのばかりです。
(中略)

 このメシヤというのは、世界中で最高の位なんです。西洋では王の王ということになってますが、キング・オブ・キングスと言ってその位をもってるんです。だから、私が出てはじめて人類は救われるのです。たいへんな事件なんです。」

 と述べている。

*通常の解釈によれば、メシヤは英語のMessiahであって、ヘブライ語の「マーシアッハ」、アラム語の「メシーア」に由来するとされている。その場合、本来の意味は、「油をそそがれた者」であると言われる。神によって「王」と定められた者は、聖油を頭にそそがれる儀式を受けたから、この言葉は世俗的には「王」を意味するものである。ところが、ユダヤ教やキリスト教の終末思想(この世界に最後の破局が到来し、つぎに人類の新生、世界の復興があるとする歴史観で、仏教の末法観に通ずるものがある)と関連して、世界破滅の時に、救済主が現われて、世界を救い、再生させる。その救済主を「メシヤ」と呼び、世俗的な王という意味よりも宗教的な意味合いの濃い言葉となった。仏教では「弥勒仏」がこれに妥当すると思われる

 それから一〇日後の二九年(一九五四年)六月一五日、九分通りできあがった救世会館において、「メシヤ降誕仮祝典」が盛大に行なわれた。この日、教祖の浄化は必ずしも思わしくなく、人の手を借りながら、ようやく神前に上がったのであった。

 二か月ぶりに教祖に会うことができるというので、全国から一万人を越える信者が集まったが、この日教祖は純白の衣装に身を包み、浄化後、初めて信者の前に姿を現わして簡単な挨拶をした。なお、この祝典において、管長・大草直好から、今後は、教祖を「明主様」から「メシヤ様」とお呼びする旨が発表された。

 教祖は、浄化にはいってから約二か月を経たこのころ、みずからが救世主としてこの世につかわされた事実を、世に明らかに示すべき時が来ていることを、しきりに感じた。手に現われた徴も、髪に現われた変化も、その時に伴って現われた神秘な事象であると考えたのであった。そこでメシヤ降誕仮祝典の時期から約二か月の間、みずからメシヤと称することによって、救世主出現の事実を、世の内外に示したのである。

 教祖は、このメシヤという言葉について、これまでおりに触れて話をしている。たとえば、昭和二三年(一九四八年)九月の面会日に、質問に答えてつぎのように述べている。

 「メシヤといふのはヘブライ語〈*〉ですからちょっと日本語には解し難い。意味は救世主、救ひ主といふ事です。キリスト教の人は、(イエス・〈**〉キリストが救ひ主だと信じてゐるが、(イエスは)〈**〉本当は贖罪主〈***〉であって、救世主とは大変違ふのです。(贖罪主は〈**〉)万民の罪を贖った人、罪の代表になり生命をギセイ』にして初めて許された人ですが、救世主の方は許されるのではなく許す方です。まあ時期の進むにつれて話しますよ。」

* ヘブライとはイスラエルの別名。アラビア人、ユダヤ人などセム族の使う言語の一つがヘブライ語とされている。旧約聖書は主に古代ヘブライ語で善かれた
**( )内は編集者・挿入
***ほかの者に代わって罪を引き受け、つぐなう者

 このメシヤの解釈は、これまでユダヤ教、キリスト教の専門学者の誰もが考えることのなかった色読(体読と同じ意味で、表面的な文字の読みに終わらずに、本当に心身全体が納得するまで徹底して深く、その意味を読みとること)の結果である。本数が一時期、世界救世〈メシヤ〉教と称したのも、こうした教祖のメシヤとしての自覚に基づくものと受け取ることができるのである。

 教祖はまた、メシヤに関する歌を数多く詠んでいるが、その中からつぎの三首をあげてみる。

 畏くも大慈大悲の観世音菩薩はメシヤの御名になりませり

 ハレルヤ〈*〉の歓呼の声に輝いて降るメシヤを仰〈あお〉ぐ嬉しさ
 *『旧約聖書』の詩篇にみられるヘブライ語で、「神をほめたたえ給え。」の意
 大教主の御名は最後の世を救ふ尊き御名なり心せよかし

 さらに、メシヤに関連して、教祖はしばしば、ドイツの作曲家ヘンデル(一六八五年~一七五九年)が作った、オラトリオ「メサイア」〈*〉について話をしている。これは改めて記すまでもなく、世界的な名曲であり、初めての演奏会の時、英国皇帝が脱帽したことから、以後脱帽が伝統になったといわれる。中でも広く知られているのは、ハレルヤ・コーラスである。教祖もこれに対しては、

 「神様が準備されたものである。」

 として賞賛を惜しまず、その演奏会を開くことができるように、救世会館内にオーケストラ・ボックスを設けたほどであった。

*この「メサイア」は、「メシヤ」の英語発音である。オラトリオとは聖書や神話等に取材した

 宗教的声楽曲で「聖譚曲」と訳されている。ヘンデルの「メサイア」はキリストの降誕・受難・復活の三部、五三章から成り、一七四二年に作られた

 教祖がメシヤと改称してから、日常の指導は、それまでにも増して峻厳なものがあった。浄化にはいるとすぐ、側近奉仕者に対して、

 「これからは霊の世界、想念の世界になる。肉体の動いている間は働きも限られる。肉体の動かない時にこそ大きな仕事ができるのだ。」

と話している。

 当時、繰り返し強調したことは、教祖に対して真っすぐに心を向け、教祖の心を求めて進めということであった。

 浄化以前においても、奉仕者の間違った言行、たとえば嘘やごまかし、責任転嫁などに対し、教祖は厳しくその誤りを指摘するのが常であったが、浄化後はとくに厳しく、些細な間違いに対しても注意を与え、叱責をするようになった。このような厳しさは側近奉仕者に対してばかりではない。妻のよ志に対する指導でも、大変厳しいものがあった。六月一五日のメシヤ降誕仮祝典が終了すると、教祖は例年の通り箱根に移り、静養のかたわら、気がかりな造営の進み具合を見たり、美術品の鑑賞などに毎日を送っていた。

 歩行は困難であったため、車椅子を利用して、毎日夕方、神仙郷や美術館を一巡するのが大きな楽しみであった。当時、苑内の石段の部分などは、車椅子が通りやすいように、すべて板で工夫をこらしてあった。

 全国の信者から寄せられた苔も根づいて、ほかに類を見ない独創的な苔庭はすでにできあがっていた。さらに強羅を起点とするケーブルカーの線路を越えた、反対側の光明台と命名されていたところに、救世教の本山となるべき神殿を建設するため、土地の造成が始められていた。これが現在の光明神殿の敷地である。

 痛みや食欲不振のため、教祖の顔はやつれてはいたが、神業にかける情熱はいよいよ盛んで、車椅子の上から、建設現場の隅々にまで、鋭い目差しを注ぎ、的確な指示を続けたのである。

 箱根に移ってから少しの間、教祖の容態は良好で、一時は日光殿で歩行の練習をしたこともあった。しかし容態の変化は激しく、食欲が皆無になったり、激痛に襲われたりすることも幾たびかあった。そんなある時教祖は、よ志を近くに呼んで、

 「このまま食べられないとすれば、もはや自分はこの世を去ることになるのだが……。」

と言うのであった。

 このころ、教祖は苦しい中でも、毎日、順番に美術品に目を通し、美術館の展示品をみずから選んでいる。

 九月六日のこと、観山亭で大燈国師の墨蹟を見ている時のことであった。この日、教祖はいつになく体調が良かった。そして、

 「右手が自分のもののような気がする。」

と言って、不自由な右手を、よ志や側近者にさわらせ、ふだんより自由に動くことを確かめさせた。するとそのうちに、教祖の腹のあたりが盛んにググウッと鳴った。それを聞いた教祖は、

 「それそれ。」

と言って、

 「こんなに早く溶かしていただけるんだから有難いね。時期だね。もうすぐ良くなる。それ、もうこんなに固まりが溶けた。これが溶けたらすばらしくなるよ。」

と、心からうれしそうであった。そばにいたよ志も、叔母のれいも、
 「もうすぐお元気になられますよ〕
と共に喜んだのである。れいが、
 「もうすぐ煙草もお吸いになれます。」
と言うと、自分で煙草を取り、口を大きくあけて、しきりにくわえようとする。しかし、なかなか思うようにいかない。そこで、よ志がくわえやすいように吸い口を曲げると、もう一度顔の近くへ持っていき、今度は上手にくわえることができた。

 「それJ

と言って、同じことを二度繰り返した。相好をくずし、非常に満足そうなその様子を見て、かたわらにいたれいが、
 「おめでとうございます。」
と言った。

 このような浄化の中でも、教祖はときにユーモアをまじえて側近者を指導している。九月一八日のことである。台風が近づいていて、風の強い中、いつものように美術品を見ていた。横山大観や橋本関雪の軸物を床に掛けていると、教祖が、

 「台風の予報はまだか。」

と聞いた。側近者は、
 「今お知らせしようと思っていました。」
と言った。すると教祖は、

 「思っていただけでは何にもならない。私がお前に、指輪をやろうと思っているが、さあ、お前、礼を言いなさい。」

と言って笑った。その時、別の奉仕者が、あとを引き取って、
 「有難過ぎて、なんとお礼申し上げてよいやら、お礼の申し上げようもございません。」
と答えたので一同大笑いになった。浄化中でも、このような心温まる一時が、たびたびあったのである。

 箱根で浄化のため静養していた教祖は観山亭で起居していたが、ある日その観山亭で、側近者に、

 「今にあそこが私の永久的な住居になるんだ。」

と、現在の奥津城の位置を指さしながら話した。

 〝新しい家でも建てられるのだろうか″くらいの軽い気持ちで側近者は聞いていたのであるが、その時すでに教祖は自分の死を予感していたので.あろうか。また浄化中の不自由な身体をおして建設現場に出かけたり、教団の現状や社会情勢の報告を毎日受け、神業を急いだのも死を予感したうえでのことであったのであろうか。

 教祖は奥津城の場所について、その以前にも予言をしている。戦後間もない昭和二一、二年(一九四六、七年)、引き続き、東北地方で布教にあたっていた荒屋乙松は信者を連れて箱根に面会に行った。教祖は建設の始まった神仙郷の中を、みずから先に立って案内した。そして、そのおりに、現在の奥津城の場所に立って、かたわらの荒屋に、

 「ここは永久の城になりますよ。」

と語ったのである。

 教祖が夏から秋にかけて箱根で静養に努めている間、世間ではさまぎまな噂が流れた。そして九月にはいって、ついに教祖死亡説なるものが新聞に掲載されたりしたのである。その後も噂は噂を呼び、いっこうに収まる様子がなかった。そこで信者のこと
を気づかった教祖は、熱海に帰るとすぐ、一一月の九日に、朝日、毎日、読売新聞をはじめ、地元新聞など一〇社の記者を救世会館に招いて会見し、疑いを解いたのであった。

 しかし夏の初めごろ、比較的軽快であった容態は、記者会見のころにはあまり良好ではなかった。側近が記した当時の日記には、箱根から熱海に戻った直後の一一月三日の項につぎのような記事がある。

 「全く食欲なし。
 午前一〇時頃、私の気持をいうからと〈*〉奥様、おば様をお呼びになり御遺言ようのことを仰せ。」
 
 *( )内は、編集者・挿入

 かつて教祖は面会のおり、歯の激痛をこらえ、いつもと変わらぬ態度で信者に対したことがあったが、記者会見の当日もまた、厳しい浄化のさなか、そのようなそぶりを露ほども見せず、にこやかにカメラの前に座したのであった。それもこれも、信者をはじめ関係者に心配をかけないように、とりわけ神業の進展に支障にならないようにとの、細やかな心配りから生まれた姿であった。