文明の創造
教祖らしくない教祖
とにかく、教祖はキリストや日蓮とくらべても遜色のない人物で、その衆生済度の大願は神々しいくらいです。それは教祖の天性の資質によるもので、努力だけでは開拓できないものが多いと考えます。今日の世には珍しい偉大な人材だと思います。
東方の光
ここでで今までの日本に於けるあらゆる文化を検討してみると、そのことごとくは西に生れ東に向って移行発展したものである。宗教上では仏教、キリスト教始め、日本に発生した神道、仏教の各宗各派も、ことごとく西に生れ東漸〈とうぜん〉したものであって、ただ日蓮宗だけが東から生れた唯一の宗教である。というのはこれには深い理由がある。それはどういう訳かというと、そもそも仏教本来の意義は、いつも言うごとく夜の世界であった期間中の救いであって、つまり月の神の守護であったのである。ところが時節到来昼の世界に転換する事になるについては、一切は霊界が先であるから、霊界においてはすでに七百年前に、黎明〈れいめい〉の第一歩に入ったのである。
序文
今日世界人類の約半数以上は、なんらかの宗教信者であり、その中の大部分はキリスト教、回々〈フイフイ〉教、仏教の三大宗教が占めている事は、今更言う必要はないが、右の三大宗教の創立者は、キリスト、マホメット、釈迦の三聖者である事も分り切った話である。そうして彼等が弘通〈ぐつう〉の方法としてのほとんどは、教へを基本としての、筆と口によった事で、それ以外の手段は余り用いなかったやうである。
私は神か人か
まず私をかくに当って、一番不思議に思っている事は、誰よりも私自身である。それというのは余りの神秘性に富んでいるからであって、この意味において主観と客観との両面から解剖してみようと思うが、これについては何年も何十年も私に接近しているもの者でも、今以って本当には分らないらしい。否私の妻でさえ余り分っていないようである、もちろん、私は宗教家ではあるが、釈迦〈しゃか〉、キリストのような一宗の創立者でもなければ、飛抜けた人物とも思えまい。それは余りにも間口が広すぎるからである。
神人合一
よく昔から神人合一という言葉があるが、実際からいってそういう人は、今迄に一人もなかったと私は思っている。なるほど釈迦、キリスト、マホメットの三大聖者にしても、神人合一の如く見ゆるが、実は神意の伝達者であって、わかりやすく言えば神の取次者であったのである。という訳で世人は神人合一と、神の取次者との区別を知らなかったのである。即ち神の取次者は神憑りや、神の命によって行動するのであるから常に神や仏陀を祈り、その守護を仰ぐ事にしているのである。
従って私に在られます神霊は、最高の神位であるから、これ以上の神様は世の中にないのであるから、他の神様に頭を下げる意味はないので、何よりも信者が日々顕わしている奇蹟がそれを証拠立てている。その奇蹟たるやキリストの顕わした奇蹟以上の奇蹟が、常に顕われているので、私の弟子でもキリストに比べて何等劣るところはないのであるから、この一事だけでも私の神格は想像つくはずである。
本教の誕生
従って、これから神についての説明をしてみるが、単に神と言っても、実は上中下の階級があり、千差万別の役目がある。神道にては八百万〈やおよろず〉あるというが、全くその通りで、今日まで神といえば、キリスト教的一神教と、神道的多神教のどちらかであった。しかし両方共偏った見方で、実は独一真神が分霊して多神となるのであるから、一神にして多神であるというのが本当である。これは私が永年の神霊界研究によって得たる結論であって、この考え方も今日まであるにはあったがそれ以上は説け得ないようであった。そうして今日まで最高神として崇められて来た神といえども、実は二流以下の神であって、最高神は遙か雲の彼方に座〈ましま〉し、只人類は遠くから札拝していたに過ぎなかったのである。では最高神とは何ぞやというと、主神〈すしん〉に外ならないのである。エホバ、ロゴス、ジュース、天帝、無壌〈むきょく〉、再臨のキリスト、メシヤ等の御名によって、各民族各国家の人民が称え来った神である。主神の御目的は真善美完き理想世界を造るにあるので、それにはすべての条件が具備しなければならないので、神はその時を待たれ給うたのである。その時とは即ち現在であってみれば、人類はこの事をまず認識しなければならないと共に、自己自身の精神革命こそ喫緊事〈きっきんじ〉である。
ここで面白い事には、その時代の文化のレベルから、僅か頭角を抜いた位の説が出た場合、識者はそれを謳歌し称讃するものである。何となれば既成文化の教育を受けた人達はこの程度の説が最も理解しやすいからで、ノーベル賞受賞者の多くはこの種の学者である。ところがたまたま共時代のレベルから余りに飛躍隔絶した説を唱えるとすると、到底理解する事が出来ないから、反って異端視し、排撃し、抹殺しようとするのである。それらの例として、ヨーロッパに於ても、キリストを始め、ソクラテスやコペルニクス、ガリレオ、ルーテル等々先駆者の受難史を見ても明かである。ところが私の唱える説は、右の人達よりも層一層破天荒で一世紀も二世紀も進歩したものである以上、初めて聴く人や、既成文化に固まった人達は、唖然として進んで検討しようともせず、頭から極端な迷信として葬り去るのである。しかしもし単なる突飛な説であるとしたら、これほど非難攻撃を浴びせられて、搗〈かて〉て加えて絶えず官憲の圧迫を受けながら、微動だもせず益々発展を加へつ、あるのは、そこに何物かがなくてはなるまい。我々が今日まで荊〈いばら〉の道をくぐり、槍衾〈やりぶすま〉の中を突破した事も幾度あったか知れない、にもかかわらず、予想以上に天国建設の事業は進展しつつあるのは、人間の理屈では解け難い事を覚らない訳にはゆくまい。何よりも一度本教の信者となるや、何人といえども一宗の教祖位の救いの力を現わし得る事である。一信者にして奇蹟を現わすなどは、日常茶飯事といってもいい、実に素晴しい現当利益である。そうして本教の教えによれば人生の妙諦を会得し、真理に目醒め、日常生活は改善され、心中明朗となり、確固たる信念のもと、未来に渉ってまでも透見されるので、真の安心立命を得るのである。何よりも本教信者は時の経るに従い、人相がよくなる事である。というのは浄血者となる以上、健康は増進し、前途の不安は消え、品性も向上するので、世間の信用は高まり、人々から敬愛されるという有徳者となるからである。そうして本数のモットーである地上天国を造るその基本条件としては、まず個人の向上であり、天国人たる資格を得る事である。この様な人間が増えるとしたら、世界は個人の集団であるから、やがては地上天国出現となるのはもちろんである。
新しい時代
奇しくも一二月二三日は冬至〈とうじ〉の翌日にあたっている。冬至は一年のうちでも陽のさす昼の時間がもっとも短い日で、二三日はふたたび少しずつ陽のさす時間が長くなり始める、まさに日に向かう第一日日なのである。それゆえに洋の東西を問わず、冬至をめぐつて、万物の命の根源である太陽の光を尊び、光が甦り、新たに生まれる時として祝祭をあげる信仰が生きていた。イエスの誕生が事実史と異なり、この冬至の日に引き寄せられて、クリスマスとなったのはその良い例証である。その意味で教祖は一年の夜明けを象徴する奇しき日に、この世に誕生したのである。それはクリスマスのように、信仰によって変容させられたキリスト教・カレンダーではない。紛れもない歴史の事実なのである。それが幾重にも教祖の誕生にまつわる「不思議さ」の感を倍加する。
無償の愛
しかし、教祖はそのころ、「救世軍」(イギリス人のウィリアム・ブースが一八六五年に始めたキリスト教の一派で、軍隊組織でもって伝道と社会事業を行なった。わが国には明治二八年・一八九五年に支部が置かれた)へ定期的に寄付をしていた。そのため、救世軍の牧師がたずねてきて、
相次ぐ神秘
「救世教では、お蔭や奇蹟で神様のあることがわかりますが、紅卍字会では全然別のやり方で神様をわからせるのです。正面に神様の席を設け、香を焚き、読経したりしてから 『扶Е〈ふーち〉』というのを始めるんですが、四角の浅いお盆に銀の砂をしいて机の上に置き、その両側に二人の人が丁字形の棒を持って立つと、その先が自動的に動いて字を書き、老祖のお知らせがあるんです。みこ〈ヽヽ〉という字は、丁に人を二つ並べて巫〈みこ〉と書くでしょ、その形です。そして扶Еを書くのは釈迦、観音、弥勤、孔子、キリストといった大宗教家が、老祖のいいつけで書くのです。だから、『観世音菩薩、老祖の命により何々の教えを伝える』と言う風に出るのです。これはとても早いのですから、二人の人間が相談するなんてことはできません。」