序文

 今日世界人類の約半数以上は、なんらかの宗教信者であり、その中の大部分はキリスト教、回々〈フイフイ〉教、仏教の三大宗教が占めている事は、今更言う必要はないが、右の三大宗教の創立者は、キリスト、マホメット、釈迦の三聖者である事も分り切った話である。そうして彼等が弘通〈ぐつう〉の方法としてのほとんどは、教へを基本としての、筆と口によった事で、それ以外の手段は余り用いなかったやうである。

 ところが私に至っては全然異っている。右のごとく教へもあるにはあるが、それは一部であって、全体としては人類が生きてゆくに必要なあらゆる文化面に及んでいる。その中でも特に既成文化の誤りを匡〈ただ〉し、真の文化の在り方を種々幾多の方法と現実とを以て教へている。そのもっとも主眼としているのは、病気と貧乏と争闘をこの地上から消滅する事であって、これは常に私の唱えているところであるから略すが、この様な救世の大業を遂行しつつある私を知る人としては、私についての何やかや出来る限り知りたいと思ふのは当然であらう。しかもそういう人が将来世界中いかに多数に上るか知れないとしたら、地上天国世界の紀元を作る私としては、後の世の為自分という者のあるがままの姿を出来るだけ審〈つまび〉らかに記〈か〉いて置きたいと思ふので、これからかくのである。

 そうして私がいつも思ふ事は、右の三大聖者にしても、なるほど立派な教えを丹念によくも説いた事は、かの仏典などが八万四千といふ浩瀚〈こうかん〉なものであるにみて、その努力には頭が下る位であるが、不思議な事には自己自身を少しも説かなかった。ちょうど立派な着物を纏いながら、裸となるのを嫌うかのように見えるので、感想や告白〈こくはく〉などは全然知る由〈よし〉もない。つまり腹の中まで曝〈さら〉け出さなかったのである。あるいはそうする事を欲しなかったからでもあらうが、その点甚だ遺憾に思うのである。

 ところが私は全然異っている。何となれば私というものの一切を、縦横無尽にさらけ出し、思ひのまますべてを記〈か〉いてみたいからである。そうして文中不可解な点もあるだらうし、虚々実々〈きょきょじつじつ〉、大小、明暗、有限無限等々で、興味津々たるものがあるであらうから、味はひつつ人生を覚り得ると共に、揺がざる魂の持主となるのは断じて間違いないと思うのである。