最後の巡教

 昭和二九年(一九五四年)四月一〇日は好天に恵まれ、春たけなわの一日であった。教祖は愛車・スカイブルーのキャデラックに乗って、七度目の関西巡教に出発した。その夜は名古屋市内の「メシヤ中教会」会長・藤枝真和(本名・茂)邸に一泊した。藤枝は後の三代教主・斎と結婚し、管長職をはじめ、教団の要職を歴任している。

 藤枝の入信は昭和一九年(一九四四年)のことであった。慶応義塾に学んでいた昭和一七年(一九四二年)、学業なかばで結核に倒れ、しのび寄る死と対峙しながら二年に及ぶ療養生活を送っていたが、昭和一九年(一九四四年)に浄霊を受け、喀血を繰り返す危険な状態から救われて入信、再生の喜びと感動から、ただちに布教専従の決意をし、神業奉仕に身を投じた。昭和二四年(一九四九年)かち、中島一斎の命により、名古屋布教を皮切りに、中部、関西方面の布教開拓に挺身した。温厚誠実なその人間性は、多くの人々の心をとらえ、戦後の教線進展の中で大きな働きをしたのである。藤枝は立春祭を翌日にひかえた昭和五三年(一九七八年)二月三日、享年五五歳で帰幽した。

 教祖は藤枝邸に一泊した翌日の四月一一日、名古屋市内の金山体育館において、中部地区の信者四〇〇〇名に講話をしたあと、一路京都をめざした。そして、いつものように瀬田の唐橋で関西地方の教会長の出迎えを受け、夜のとばりの降り始めた午後六時過ぎ、多くの信者に迎えられて、平安郷の春秋庵に到着したのである。

 教祖最後の巡教となったこの旅には、神秘な話が数多く伝えられている。その一つに巡教三日日の天候についての逸話がある。

 前々から、このつぎの巡教のおりには奈良で講話をしようという教祖の意向を受けて、準備にあたっていた地元の幹部は、三日目の四月一二日に、奈良公会堂を借りようとしたが、すでに先約があって断わられてしまった。しかし、奈良で多くの信者を収容できる建物はここをおいてほかにない。どうしても公会堂を借りなければならないと判断した関係者は、ある家庭電気製品の会社が、愛用者招待と銘打って多数の客を奈良見物に招き、雨天の場合に備え、昼食をとる場所として公会堂を予約していることを聞き出した。そこでたとえ雨天の場合でも、午前中に講話を終え、昼食までには会場をあけるからと再度頼み込み、ようやく了承を得ることができた。

 この公会堂は、ひどく荒れていたので、信者の協力を得て、大掃除をし、壁紙を貼り替えたりしたので、見違えるように奇麗になった。地元幹部一同の、当日の天候を案ずる気持ちは大変なもので、晴天になるようにと、みんな心から祈っていた。

 ところが、一二日の朝、京都は篠つくような大雨になり、奈良も同様であった。幹部一同は、雨降りの中を参加する信者の苦労を思い、講話終了後の混雉を思って、心も重くふさがれるのであった。けれども、その中にあって、教祖一人だけは、

 「龍神*が都合よくやるよ。」

 と泰然自若(落ち着きはらって平常と変わらない様子)として微笑を浮かべていた。はたして、教祖の車が京都から奈良にかかるころから薄日が差し始め、ふたたび雨が降り始めたのは、教祖の講話が終わって、信者たちがみな公会堂を出てしまった後のことであった。

 *龍神は雨をつかさどるとされている

 その日の午後、教祖は俗に、女人高野と称され、奈良朝末期の様式の、美しい五重の塔のあることでも知られる、奈良県宇陀郡室生村の室生寺に向かった。

 この寺は、はじめ室生・龍穴神を祀る寺として平安朝初期に建てられたものである。神秘な出来事はこの山間の古刹においても起きたのである。

 この日に先立ち、教祖の室生寺参詣が決まったので、幹部はまず寺に下見に行き、事情を述べて、「当日、教主を奥座敷に案内していただくことはできまいか。」と頼んだ。しかし、寺側では、「あなたの方では尊い教主様かもしれないが、当方で貴人と認めたうえでなければ、奥の座敷に通すわけにはいかない。」という返事であった。いたしかたなく当日は、適当な場所に休憩所を設けようと考えて引きさがった。

 ところが、いよいよ当日になり、教祖の一行が室生寺に到着すると、礼装の衣に着替えた役僧が出てきて、掃き清めた奥座敷に案内するとともに、このうえないもてなしをしてくれたのである。不思議に思って寺側にその間の事情を尋ねると、つぎのようなことがわかった。

 この寺には昔から龍神の守護があり、貴人がたずねる時には、その数時間前に雨が降り、その直前になると雨があがって、境内がすっかり清められるという言い伝えがある。その日の昼ごろには、まだ雨が激しく降っていたが、教祖が室生寺に着いた午後二時過ぎには、燦々と陽光が降り注ぎ、しかも寺の前を流れる室生川の水が、雨にも濁らず美しく澄んでいるので、今日の来客は貴人に違いないと、急遽もてなしの用意を整えたというわけであった。

 教祖は人里離れたこの山懐に、みごとに花開いた仏教芸術のたたずまいを飽かず楽しみ、春の暮色の中によ志と共に、美しい姿の五重の塔をめでつつ、ふたたび車中の人となったのである。

 その夜、奈良ホテルにおける会食の席上、教祖は、

 「きょうは、私は一日中うれしくてたまらない。この喜びは誰にもわからないだろう。きょう雨が降ったのは、あれは龍神が行なったのです。龍神というのは神様ですが、やはり罪のために龍神になったのです。それで五六七の御代の建設のため、神様のお手伝いをしたいのですが、龍神でいてはそれができない。それには、元の神格に返らなくてはならない。そうなるには光です。光に浴するしかないのです。それできょう、私がここに来るのがわかったので、お光に浴するわけです。それは何万という龍神です。その感謝を雨で表わしたのです。私の車の前を雨が降って行くのです。その龍神の感謝の気持ちが私に来るので、涙が出るほどうれしいのです。」

と神秘の一端を明かしたのであった。

 翌四月一三日、教祖一行は吉野山をめざした。吉野には歴史的な遺跡や伝説が多く伝えられている。ここは紀州(今の和歌山県)の熊野に結びつく山伏修験の霊地とされ、山岳信仰の重要な地である。

 天智天皇の子、大友皇子と、その弟・大海人皇子との皇位継承をめぐる骨肉の争いにさいし、大海人皇子が挙兵をして、かの壬申の乱が起きた発端の地はこの吉野である。

 それから数世紀の後、兄・頼朝の疑心暗鬼から、追われる身となり、流浪の旅を重ねた源義経が、愛する静御前と共にいったんは身を寄せたが、追及の手は厳しく、ついに奥州(今の東北地方)へ落ちのびるべく、静と涙の袂を別ったのもここ吉野であった。

 さらに時代は下って一四世紀のなかば、鎌倉幕府を打倒し、一時は王政復古に成功した後醍醐天皇が、政権を手中にしたのも束の間、足利尊氏の裏切りにあって苦境に陥り、京都から奈良へと落ちのび、ついに身を隠して、尊氏の擁立した北朝に対抗し、南朝の皇統を守りぬこうとしたのも、ここ吉野である。

 また、『古事記伝』はじめ、日本古典の解読と古代の解明に生涯をかけた徳川期の国学者・本居宣長が、自分は吉野に祀られた水分神社の「神の申し子」(神に祈ったお蔭で授かった子)であると母から聞かされ、死後は自分の奥津城(墓所)の前に、一本の形良い山桜の木を植えて欲しいと遺言した。

 このような哀れを誘う物語の多い半面、宣長の遺言書に登場するように、吉野山で知られるのは一目千本の桜(美しい沢山の桜の花が一目で眺められる)である。数万本の桜が、春の到来とともに、裾野から山頂へと咲きそろい、山肌を淡い色に染めあげていくその美しさは絶妙である。しかしこの年は春が早く、吉野もすでに葉桜の季節を迎えていた。

 この日、教祖の車を案内していた先導車が、吉野山へさしかかって間もなく、教祖の車が続いて来ないことに気付いた。そこで、あわてて引き返した。すると教祖の乗った車は数百メートル手前のあたりで立ち往生し、運転手がボンネットをあけて点検中であった。ところが、どこにも故障がないのに車が動かない。運転手はしきりに首をひねるばかりである。

 「この社はなんというんです? そしてご祭神は?」

という教祖の言葉に気が付くと、そこはちょうど、吉野神宮の門前に近かった。教祖はここが後醍醐天皇を祀る吉野神宮であることを知ると、

 「ここに参拝しないということはない。」

と車から降り立ち、神前に進んで祈りを捧げた。

 悲劇の帝の魂に向かって、教祖は何を念じ、何を祈ったのであろうか。一行は神秘な導きの縁を思いつつ、教祖にならって敬虔な祈りを捧げたのであった。そして参拝を済ませ、教祖が戻ると、車は何事もなかったかのように、ふたたび軽快に、吉野の山道を登り始めたのであった。

 途中、吉野の総本山である金峰山の蔵王堂に詣でた直後、中ノ千本*に向かう道で、一台の車が先の方で側溝に落ちたとかで、またもや立ち往生になった。そこで教祖は身軽に車を降り、尾根に続く土産物屋の間の道を、観光客に混って歩いたのであった。
 
 *吉野のふもとの千本口から、奥へ順に、ロノ千本、中ノ千本、上ノ千本、奥ノ千本と呼ぶ。中ノ千本とは、旅館の集まった吉野山でもっとも賑やかなあたりを差す名である

 花の散った木々の下を行く教祖の胸中には、義経の哀れな身の上のこと、そしてまた、古来この地に栄えた山岳仏教のことなどが去来したと伝えられる。
 
 この日随行した者にとって、教祖とそぞろ歩きしたこの一時のことは、生涯忘れ得ぬ思い出となった。それはこの日が教祖の関西巡教の最後の一日となったばかりでなく、多くの人々にとって、教祖の元気な姿に接する最後の機会となったからである。