法隆寺

 昭和二六年(一九五一年)の二度の巡教で、京都の主要な史跡を一巡した教祖は、二七年(一九五二年)の春には、奈良をたずねた。

 教祖が参拝したのは、藤原氏にゆかり深く、その庇護のもとに大いに栄えた興福寺と春日大社、聖武天皇の発願になる、木造建築では世界最大の東大寺、幾多の辛酸をなめ、苦難の末、日本に渡来して日本人の僧に戒を授けた唐の憎、鑑真和上を開祖とする唐招提寺、聖武天皇の妃・光明皇后総国分尼寺として建てた法華寺*、飛鳥**文化を今に伝える斑鳩〈いかるが〉の里の法隆寺などである。

 *八世紀なかばころ、全国に建立された尼寺の総本山
**六世紀末から七世紀前半にかけて、奈良の飛鳥地方を中心に栄えた仏教文化

 この時の教祖の巡教に先立って、川合輝明、森山実太郎、岩松栄ら、関西在住の教会長が予定地の下見に行ったおりのことである。一同は春日大社に参拝して、諸般の打ち合わせを済ませた帰り道、ふと目に映った社名にひかれて金龍神社という末社に立ち寄った。そして、あたりが大変奇麗に掃き清められているのに気付いた。見ると若い娘が一人で掃除に精を出している。三人はその娘に軽く挨拶をしてから、社前に立って祝詞を奏上した。すると、突然その娘が土下座してしまったのである。

 霊憑りであると直感した三人は、祝詞の奏上を終えると、静かに娘の肩をたたいた。聞くと、奈良の近くに住み、一家そろって、ある宗教の熱心な信者ということであった。その日の朝、神前でお祈りをしていると、 「このたび、世界の全人類を救う大願をもたれている神人が奈良に来られる。そのために、その輩下の人々が前もって奈良に調査に来る。夕方、春日大社に参拝し、金龍神社にも参るはずである。あの場所は訪れる人も少なく汚れているから、おまえが行って清めるように。」
という神命を受けたので、こうして先刻から掃除をしていた、というのであった。

 教祖の巡教はまだ予定の段階であり、ごく一部の者しかその事実を知らなかった。それなのに、他の宗教を信ずるこの娘が教祖の霊格と、さらには教祖巡教の旅程やその準備のことまで、すべて一分の狂いもなく、あらかじめ知らされていたのである。この事実に接して、三人は厳粛な思いに打たれ、神の深き仕組と教祖の力徳を、改めて痛感したのであった。

 この中の一人、森山実太郎は、当時教祖の巡教にさいしてはいつも、その準備を進めるとともに、その先導役を勤めた弟子の一人であった。本教との縁が結ばれたのは昭和一八年(一九四三年)のことである。幼いころ、骨折した踝が炎症を起こし、激痛をともなうようになったのが、きっかけであった。母親の浄霊で痛みの薄らいだ森山は同年九月、中島一斎が神戸市御影で出張講習を行なったさい入信し、お守りを受けた。それから三年余りの後、会社役員としての地位を捨てて専従生活にはいった。その後、経済的にも窮迫し、また死線をさまよう大病をするなど苦しい時代もあったが、教祖との面会を通して力と勇気を与えられ、昭和二三年(一九四八年)、後の「実生教会」の礎を築いた人物である。後、昭和二五年(一九五〇年)には、理事に就任し、以後、出版担当理事として活躍、その社会的経験と幅広い教養を生かし、教団の文書活動、出版活動の基礎づくりをしたのである。森山は昭和五六年(一九八一年)四月一三日、享年七八歳で帰幽した。

 前後七回に及んだ教祖の関西巡教のうち、特筆すべきことの一つは、法隆寺の夢殿をたずねた時のことであろう。 法隆寺は七世紀初頭、第三三代・推古天皇の御代、摂政(天皇に代わって政治を行なう官職)であった聖徳太子が父・用明天皇の病気平癒を祈って創建したと伝えられる。中でも法隆寺の東院にある夢殿は、太子が仏法を学び、大陸伝来の大乗仏典の真義を味読(内容を味わいながら読むこと)しようとして思索を深め、時に霊告(神仏からのおつげ)を受けたというゆかりの八角の堂である。

 昭和二七年(一九五二年)四月二九日、法隆寺を訪れた教祖は、本尊の救世観音が開帳されていることを知り、敬虔な思いで夢殿の前に立った。中央の扉が左右にあけ放たれ、中の厨子(仏像や経巻などを納め、安置する仏具)も開かれて、薄暗い中に、飛鳥時代に刻まれた救世観音像が静かに佇立している。この観音像は、聖徳太子と等身大のものといわれ、秘仏として布に包まれたまま人の目に触れることがなかった。それゆえ、千数百年を経てもなお、艶やかな黄金の輝きを失ってはいない。半眼に開かれた眼は鋭く、しかも、静かに彼方を見つめている。教祖はこの像と向かい合っているうちに、しだいに観音像と自分との間を隔てるものがなくなって、一つになるのを感じた。その時の体験を教祖はつぎのように語っている。

 「観音様の処に向うと、観音様からスーッと霊気が入って来る。実に何とも言えない良い気持です。そうして涙が流れそうになって来た。まあ、長い間待っていたという訳ですね。それで、やはりそういった—-神様の方にも時期があるんです。その時期が来る迄はどうする事も出来ない。それで、今迄法隆寺の夢殿に於て時を待たれていたんです。」