日課

 (一)起床 午前七時四五分、係の者が「お時間です。」と声をかけてラジオのスイッチを入れる。教祖はNHKの「朝の訪問」を床の中で聞いた後、八時に起床する。

 (二)入浴 入浴は朝夕二固であるが、朝は八時から一〇分ほど、洗顔をかねて温泉にはいる。その温度は非常に低く、摂氏三八度と決まっていた。(一般の人は四二、三度が普通である)

 (三)新聞の閲覧  入浴後、中央、地方の新聞十数種に目を通す。この時教祖が読むのは見出しだけである。さらに詳しく読むべき記事には赤丸を付ける。それは夜一一時過ぎの新聞朗読の時間に係の者が読み上げるための目印であった。この間二〇分ほどは、霜柱の立つ真冬であっても浴衣一枚で過ごした。

 「私はぬるい揚にはいっても、出たあとは身体が非常に熱い。」

とはよく話したことであるが、まったくその通りであった。

 (四)朝食 八時半から四五分まで、ラジオの「趣味の手帖」を聞きながらの朝食である。食物のバランスを重んじた教祖は、朝は植物性のもの七割に動物性のもの三割、夕食はその逆というように、その内容を十分配慮したものを食べた。また、朝食後必ず「ふかした薩摩芋」をとっていたが、これも食物のバランスを考えての教祖の工夫であった。

 (五)奉仕者挨拶 この「ふかした薩摩芋」が食卓に出されるのを合図に、奉仕者一同は打ちそろって朝の挨拶をする。

 (六)調髪 二日おきに来る理容師が、調髪と顔剃りとを交互に行なう。その間教祖は、係の者の雑誌の朗読を聞く。雑誌はヲ美術工芸、『博物館ニュース』、『大和文華』、『陶説』といった美術関係や、『新建築』、『国際建築』など建築関係のものが多かった。

 (七)生け花 四、五日ごとに、各部屋に飾ってある生け花十数瓶を全部教祖一人で生け替える。花材は、庭に降り立って、みずから切ってきたものと、信者から届けられたものとが合わせて用いられた。所要時間はせいぜい三〇分ほどである。

 (八)面会 そのころ毎月一〇日間は、咲見町の仮本部で全国から参集した信者との面会が行なわれた。これは午前二時から一時間ほどであった。席上、宗教はもちろん、政治、文化などについての教祖の論文が発表される。終わって、教祖みずからその論文について解説をするなど、幅広い指導が行なわれた。最後は「寸鉄」の発表があって、一同大笑いのうちに終了となる。

 昭和二七年(一九五二年)の立春祭を期して寸鉄のあと、教祖は参拝者全員に浄霊をするようになった。

 面会のない日は、午前中ずっと碧雲荘の書斎で原稿の推敲にあたることが多かった。

 (九)入霊と昼食 正午には、ラジオのニュースを聞きながら、お守りに入霊が行なわれた。入霊とは、教祖がお守りを眉間に近寄せ、天庭(額のこと)から霊を入れることである。これが終わって、零時半から昼食になる。

 (一〇)午後一時から三時ごろまでは、教団幹部や美術商との面接が多かったが、来客のない時は原稿を口述することもあった。午後三時からは、大規模な工事が進められていた瑞雲郷を視察し、細かい点にいたるまですべてみずから指図をし、 天気のよい時は、瑞雲郷からの帰途、車を降りて熱海の町を散歩しながら碧雲荘へ帰ることもあり、またときには東山荘へ寄って美術品の鑑賞や整理をすることもあった。

 その間、午後三時にはニユース、続いて「健康の時間」を聞きながら、「くず桜」などの和菓子で、茶を飲む。これも日課の一つであった。

 (一一)奉仕者への浄霊 午後五時に係がラジオのスイッチを入れると、教祖はニュースを聞きながら、身体の調子が悪い奉仕者に浄霊をした。浄化しているのに遠慮して申し出ないでいると、かえって叱られることもよくあった。

 (一二)夕食 午後五時半にふたたび入浴、終わって朝と同様に新聞(夕刊)に目を通して赤丸をつける。そして六時から夕食。この時家族は一緒になるが、ときには来客も同席し、賑やかな談笑の一時<ひととき>を送る。

 (一三)映画会 夕食の済んだ午後七時、奇数日には咲見町の仮本部で、奉仕隊員の慰安<いあん>を兼<か>ねた映画会が開かれた。たいてい、町の映画館と同様に、劇映画一本とニュース一本であり、所要時間は一時間半くらい。劇映画は日本のものはもちろん、外国のものも適宜<てきぎ>上映された。映画を好んだ教祖は、よ志らを伴って観賞するのを楽しみにしていた。

 (一四)揮毫 偶数日には、碧雲荘の一室で、神体やお守りなどの揮毫が、午後七暗から一時間程度行なわれた。この時も終始ラジオを聞きながら、「光」の字一文字のお守りならば一〇〇枚を一〇分前後のスピードで、流れるように書いた。

 (一五)美術の研究 映画や揮毫のあと、午後九時までの時間は、美術品の図録に目を通した。白鶴や根津美術館の大きな図録、あるいは『世界美術全集』などいろいろな美術書を見ながら、美術研究に余念がなかった。

 (一六)肩もみ 午後九時になると、ラジオのニュースとニュース解説が始まる。教祖はそれを聞きながらしばらく休息をとる。その時奉仕者が肩をもむことになっていた。

 (一七)夜食と教務報告 午後一〇時、ニュースに耳を傾けながら、サンドイッチ、フルーツ、麺類、寿司、茶漬け、といったたぐいのもので、軽く夜食をとった。一〇時半、ニュースの終了を合図に、その後に用事のない奉仕者たちは夜の挨拶をして、一日の奉仕が終わる。しかし教祖は引き続き、その日の教団の業務その他について執事の報告を聞き、必要な指示を与えるのである。

 (一八)ニュース整理 それから新聞朗読になる。朝と夕方の入浴後に印を付けた記事を係が朗読する。一一時から約一時間ほどで、日によっては新聞以外の雑誌を朗読させることもあった。その間教祖は自己浄霊(自分自身に掌をかざし、浄霊をすること)をしたり、美術品を鑑賞したりしながら聞いている。「目と手はあいている。」といって、一度に二つ、ときには三つくらいの仕事を同時に処理<しより>することもしばしばであった。

 (一九)口述 午前零時ごろから今度は論文の口述が始まる。四百字詰め原稿用紙三、四枚の論文を、一晩に二、三篇口述することが多かった。そのほか、祭典時の讃歌を作ることもあり、また、寄書やお蔭話(信者の信仰体験手記)を聴取するのもこの時であった。

 (二〇)就寝 午前二時になると、「今日はこれまで。」といってその日の業務を打ち切り、冬はみずから火鉢やこたつの残火を始末して寝室へはいる。

 特別なことのない限り、教祖はこのような日課で、毎日を送った。忙しい毎日ではあったが、けっして予定に追われることなく、悠々と楽しみながら仕事を続けていった。

 しかも教祖の生活は、一見したところ、とくに変わったところはなく、ごく普通の暮しであった。たとえば、碧雲荘の居間にしても、床の間に日本画が掛けられ、教祖みずから生けた花が置かれているといった、大変簡素で平凡なものであった。

 しかし、一見なんの変哲もないこのような生活の中で、大きな神業が着々と進められていったのである。