このように大がかりな捜索を、教団が受けなければならない原因はなんであったのだろうか。
前章にも記した通り昭和二一年(一九四六年)から二二年(一九四七年)にかけて、布教活動はいよいよ活発化していった。しかし奇蹟が相次ぎ、入信者もますますふえていく中で、布教の中心となった浄霊や自然農法などについて、今から省みると、一部に説明が十分でなかったり、本部の指導が全国隅々まで徹底せず、行き過ぎが見られたかもしれない。そのために非難、中傷が激しくなり、教団に対して悪感情をいだく人々が、教団誹謗の投書を当局に送り付けたのである。こうした動きによって、当局が教団に対し疑心暗鬼の眼を向けるのは、ある意味で自然の成り行きであった。そして、それが投書をする輩の狙いでもあったのである。
そのような状況のところへ、大蔵省査察事件が起き、次いでC・I・D(進駐軍犯罪捜査課)による教団施設、とくに箱根・神仙郷内の徹底的な一大捜索が行なわれたりした。このほうは、空振りに終わったものの、そのすぐあとで、二人の弁護士の仲違いが表沙汰になるなどして、当局の疑心はいよいよ深まったと見られるのである。しかし、教団を内偵してもなかなか決定的な事実をつかむことができなかった。そのうち、たまたま二、三の問題が浮上した。そこでこれを足がかりにして幹部を逮捕し、証拠を固め、教祖を逮捕するとともに、一気に教団の内情を糾明しようとしたのである。
その第一は、瑞雲郷の道路拡幅に関し、農地購入のさい、贈賄(賄賂を贈ること)したこと。
第二は、瑞雲郷の用地として購入した土地に農地があり、その地目変更をせずに道路を造成したこと。
第三は、昭和二四年(一九四九年)、清水町の仮本部を二度にわたって増改築したさい、建築許可を受けずに工事を行なったこと。またこれに関連して関係監督係官に贈賄したこと。
第四は、当時、臨時物資需給調整法という法律があり、その中に石油製品配給規則というのがあって、石油製品は厳しく統制されていた。そういう統制下にあったガソリンを、教団の関係者が数度にわたって不法に入手したこと。
第五は、信者であった某銀行員の手によって、教祖の金を他人名義の口座に分割したこと。
以上が容疑の内容であった。
五月八日の大捜索は、これら五件の容疑を表向きの理由として、そのじつは、教団に向けられているさまざまな疑惑仰の解明、とりわけ旧陸軍が秘蔵していたといわれる隠匿物資を見つけ出すことに、その主眼があったのである。ところが、貴金属や宝石はもちろんのこと、これという証拠物件も発見できず、当局にとってはなんとも不本意な結果に終わってしまったのである。
そこで検察当局は、逮捕した井上茂登吉と金子久平を厳しく取り調べ、二人の自白によって教祖逮捕の証拠固めをしようと考えたのである。
静岡の警察署に留置された井上と金子は、執拗な取り調べを受けた。井上の容疑は財産隠匿を目的として、教祖の預金を多くの名前のもとに分割するよう銀行員に依頼し、その返礼として銀行員に金を贈ったというものであった。
また金子の容疑は、瑞雲郷の用地として農地を購入したおり、地目変更に便宜を図ってもらったとして、農地委員会に金を贈ったというものであった。二人は思いもよらぬことであり、その容疑を全面的に否定した。しかし、取り調べ官は納得せず、脅迫的な調子で詰問を繰り返した。日を追うにつれ二人は環境の激変と、絶え間ない尋問のために、しだいに心身ともに憔悴していった。
とくに生来>病弱の井上の打撃は大きく、持病の座骨神経痛が悪化し、不眠と食欲減退から、身体の衰弱がはなはだしくなった。後に出所してからも、心臓衰弱と肝臓炎を併発して医師から一か月の絶対安静を命じられたほどであった。これほどの状況に追い込まれながら、なお彼らを支えていたのは、
「明主様にだけは、万が一にもご迷惑をおかけするようなことがあってはならない。」
という一念であった。
ところが取り調べ官はその心を見抜いて逆手に取り、
「君が言わなければ岡田教祖に来てもらう。」
と言葉巧みにおどしにかかるのであった。二人は覚悟を決め、自分たちが有罪になっても教祖を守ろうと、取り調べ官の望んでいる内容を想像して、銀行員や農地委貝全開係者に謝礼を贈ったという供述をしたのであった。ところが皮肉にも、まさにこの供述が、教祖の逮捕に口実を与える根拠となってしまった。