昭和九年(一九三四年)一二月二三日、この日は皇太子・継宮明仁親王の満一歳の誕生日というめでたい日であるが、また、教祖五二回目の誕生日であり、さらに、「大日本観音会」の仮発会式が応神堂において行なわれた記念の日でもある。
この日夕刻、立派に表装のできあがった教祖自筆の千手観音の大画像が、初めて、応神童二階の九尺(二・七メートル)の床の間に奉斎されたのであった。その神々しくも慈悲にあふれた容貌を拝し、参拝した三十余名の幹部一同は、身の引き締まる感動を覚え、おのずから襟を正したのであった。(口絵カラー写真参照)
定刻午後六時、仮発会式が始まり、献饌に続いて、教祖先達によって『天津祝詞』奏上、玉串奉奠のあと、教祖新作の『善言讃詞』をこれまた初めて奏上、讃歌〈*〉「東方光」を奉唱して、祭典は終了した。
*教祖がその心を歌に詠んだもので、祭典の時に奏上
東 方 光
久方の天津御神〈あまつみかみ〉は東方の光となりて現れましにけり
東方の光といへど観音の救世〈ぐせ〉の力の事にぞありける
三千年〈みちとせ〉を待ちし甲斐あり東〈ひむがし〉の光は今し昇らんとすも
瑞雲の靉〈たなび〉く空に赫々〈かつかく〉と輝きいづる東方光かも
東方の光は東方日の本の国より出づる神定〈さだめ〉なりけり
直会〈なおらい〉のあと、教祖は観音会が発会するまでの経緯を話し、ことに観世音菩薩の霊徳を示す三葉の霊写真が生まれたいきさつを物語った。それから中島一斎の妻・暉世子の、生田流琴曲「御国の誉れ」の演奏の奉納があって、発会式は滞りなく終了したのである。教祖の話に、立教の喜びと、今後の神業への献身の誓いを新たにした参会者の心には、澄みきった琴の音が、ひときわすがすがしく響いたのであった。
この日、式典が終了してからのことである。
新来の婦人が一厘銭を持参して教祖に献上した。ところが、その一厘銭には、表に千手観音の浮き彫りがあり、裏には千手観音の四文字が現われていた。教祖はさっそく、三、四〇年も古銭を扱っている道具屋に見せたところ、
「初めて見るものです。」
と言う。よほど珍しいものであったようである。これについて教祖は、
「千手観音様は一厘の働きであるといふ事を、神様が小さな事に依って、知らされたのだと思ひます。」
と述べている。
教祖は未完成、不完全の働きを九分九厘の働き、完全の働きを十全の働きと表現することがよくあった。そうして、その差である〝一厘の働き″の中にこそ、ものを完成させていく絶対の力が込められていると説いたのであった。
応神堂において仮発会式をあげた夜のことである。
「半蔵門の御神前を仮本部として発会式をあげよ。」
という神示があった。半蔵門は九月まで大本、麹町分所として使っていた建物である。さっそく教祖は翌日改めて現場を見て、祭壇など造作についての指示をした。年末の慌しい時期ではあったが、工事は順調に進み、松飾りも立派にできあがって、あとは発会式を待つばかりとなったのである。
「大日本観音会」の役員はつぎの通り決定
一厘銭について
この一厘銭に関して、わが国最大の貨幣コレクションを有する日本銀行に調査を依頼したところ、一七万点に及ぶ標本中、先の話のような銭が二枚発見された。写真はその中の一枚の表と裏である。
なお、これは絵銭と呼ばれるもので、正確にいえば通貨ではない。絵銭とは七福神や三猿などの絵を取り入れたもので、江戸時代から民間で一部の好事家が飾りやお守りとして作ったものである。仏像のはいったものは、とくに守り本尊として一時大流行したこともあったという。婦人が持参した一厘銭は、おそらくこの絵銭と同じものであったと思われる。
機関紙『東方の光』第一号に発表された。
教祖は、昭和九年(一九三四年)以降、それまでの「暉月」の号をやめ、浄霊、医療関係の文には「仁斎」、書画の揮毫には「自観」の号をおもに使うようになり、また、信者たちはそれまで教祖を「先生」と呼んでいたのを「大先生」と呼称するようになった。「大日本観音会」の発会時における組織は左のごとくである。
盟 主(会主) 岡田 仁斎
会 長 竹村 良三
次長兼会計 正木 三雄
理事長 中島 一斎
理 事 中野 操
堀口 清松
荒屋 乙松
松久 茂徳
清水 義仁(清太郎)
金高 公義〈
金高 真城
木原 義彦
岡庭 真次郎