草創期の先達

 昭和一〇年(一九三五年)元旦の、「大日本観音会」の発会は、教団の原点とされている大きな節である。ここにいたるまでの昭和の最初の九年は、神業の草創期であり、後の教団の基礎が固められた大切な時であった。このころは、もちろん、施設その他、今日見るような立派なものは何一つなく、教祖の生活も、物心両面にわたって不自由の多い時代であった。しかし、そのような中を、ひたすらに神を信じ、教祖に誠を尽くして、神業を支えてきた何人かの先達の人々があった。

 草創期の先達の中でも、もっとも早くから教祖の側近に奉仕して執事の業務を担当し、昇天後まで変わることなく誠を捧げた井上茂登吉(本名、福夫)は、明治四一年(一九〇八年)八月、島根県松江に生まれた。生家は宍道湖畔で茶を商う由緒ある家で、熱心な大本の信者でもあった。井上は幼時から宗教的雰囲気の中で成人している。大学受験のため昭和二年(一九二七年)三月、上京してすぐに半蔵門に近い愛信会本部へ行った。ここは後の、麹町分所で、教祖の麹町方面の布教の中心となった所である。井上はここで、教祖に初めて会い、
 「いつでも遊びに来なさい。」
と言葉をかけられて、冒し難い無形の力を感じ、ただただ、どぎまぎするばかりであったと、後になって回想している。

 井上が初めて大森の教祖宅へ行ったのは、上京した翌年、昭和三年(一九二八年)の一一月のことである。出口王仁三郎が東北巡遊の途上、大森へ立ち寄ったので、東京中の大本の信者が集まった。そのおり、井上は初めて行った教祖宅の気兼のない、なごやかな雰囲気に心温まるものを覚えると同時に、教祖の図抜けた人物の大きさ、心配りの隙のなさに限りない魅力を感じたのである。

 その日、集まっていた信者の一人が、教祖に信仰上の質問をした。
 すると教祖が、「慢心はいけないが、慢心を通り越した慢心ならいいですよ。」

と答えたので、相手は驚いて納得のいかない顔をしていた。それを聞いた井上も非常に驚いた。というのは大本では慢心はもっとも恐るべき落とし穴として強く戒めていたからである。しかし、井上は驚きながらも、そこに慢心を懸念する凡俗の境を通り越した、非凡の境地をおぼろげながら、感じ取ったのであった。

 井上は、生来の病弱から暗い精神生活を送っていたが、教祖との出会いによって、それまでの人生観は大きく変わった。教祖のまわりには、常に明るい天国的な雰囲気があり、また、教祖の話には、宗教家にありがちな持って回った大仰な調子や、お説教的な固苦しさはまったくなかった。きわめて常識的で穏やかな、淡々としたものであった。とくに驚いたことは、どのような質問に対しても当意即妙に答える、その智慧の深さであった。

 ある日のこと、教祖が大井支部で講話をした時の話である。
 「大和とはなんでしょうか。」
という質問が出た。時あたかも国際情勢は年ごとに緊張の度を加え、日本は世界の中に孤立して難局に直面していたころであった。大和魂という言葉も、しばしば人のロのにのぼっていた。教祖は、

 「大和魂とは松の心である。松の心とは時節を待つ心であり、いつまでも変わらぬ誠である。」

と答えた。

 井上はこれを聞いて教祖が信仰の真髄を一言で道破したことに深い感銘を受けた。こうして井上は、教祖の力の偉大さを覚り、また、人格に打たれ、法政大学に籍を置きながら、昭和五年(一九三〇年)の秋ごろから側近で神務に励む生活にはいったのである。そのころのことであろうか、教祖の手元不如意(金銭に不自由すること)の時、井上は、実家から送られてくる学費などの仕送りを、そっくり教祖に差し出すということもよくあったという。

 井上はきわめて個性的な人柄であった。教祖に呼ばれ、あわてて、くわえていた煙草を袂に入れて駆けつけたので、教祖の前で袂が燃えだしたという話や、教祖に庭木の「枝下ろし」を言いつかり、自分の乗っている枝を切り落としかけたので、下で指図していた教祖の方がぴっくりしたという話など、奇行談が数多く伝えられている。

 しかし、井上の記憶力の良さや、またその能筆ぶり、文字を良く知っていること、なかなかの美文家であることなど、その文学的才能には卓越したものがあり、書画の揮毫、論文の口述、機関紙や雑誌の発行と、多方面にわたる文化活動を進めた教祖には欠くことのできない大切な側近であった。とくに、その美声はすばらしく、讃歌を先達する声は聞く人の心に響き、また、笑い冠句の朗詠はまさに絶妙というべきものがあった。
 井上は教祖昇天後、昭和三七年(一九六二年)一〇月、五三歳をもって帰幽した。

 「大日本観音会」発会にさいして、政治的、経済的両面から、もっとも大きな貢献をした竹村良三は、教祖の誕生より半年ほど遅れて、明治一六年(一八八三年)の五月に、東京府北多摩郡狛江村(現在の東京都狛江市)の素封家・須田家の三男として生まれ、一五歳の時麹町三丁目の履物卸商・森田屋・竹村伝兵衛の養子となった人である。森田屋は天保二年(一八三一年)創業の、宮内省御用達の老舗であった。

 良三が初めて教祖に会ったのは、昭和四年(一九二九年)、孫の病気の浄霊が縁であった。教祖に心服して大本の信仰にはいり、以来、教祖とともに熱心に布教に努めたが、昭和五年(一九三〇年)七月、大森分院が完成するや、教祖は分院の管事、理事長は竹村、理事には正木三雄が就任している。昭和九年(一九三四年)、教祖が大本を脱退するや、教祖と行を共にし、やがて「観音会」創立とともに、教祖の要請を受けて会長となり、祭典の時には、衣冠束帯に威儀を正して斎主をつとめたのである。

 当時、良三は麹町区の区会議月であり、また、麹町警察署管内の保安協会副会長をも兼務していて、社会的信用も厚く、その存在は創立間もない「観音会」のために大きく寄与したのであった。さらに、和歌、俳句の会の常連として毎月出席するとともに、昭和六年(一九三一年)の鋸山の神事や、鹿島、香取両神宮の参拝に、妻・直子と共に随行するなど、教祖の旅行には決まって同行している。

 教祖と良三の関係は、信仰上のことばかりでなく、私事においても文字通り肝胆相照らす間柄であった。教祖はあまり酒は飲まなかったが、酒好きな良三とよく一緒に外で飲んで帰ることもあったし、また、密談と称して家人を退け、二人だけで〝人情話〟に打ち興じたこともあったという。

 当時のことを良三の娘・偉子〈ひでこ◎〉はつぎのように語っている。
 
「昭和四年(一九二九年)のころ、子供が病気した時に、近所の山室さんが正木さんを紹介してくれました。正木さんは、〝私よりもっと偉い先生がいらっしゃるから″と言って、教祖様と二人でおいでになったのが最初でした。

 教祖様が実業をしていて、小間物を三越に納めておられたころ、三越に三正会という会がありました。この会にはいる条件は大変厳しく、一〇人中、せいぜい二、三人でしたが、その三正会に岡田商店ははいっていたのですから、信用は絶大だったわけです。それだけの事業をポンと投げ出して信仰の道にはいり、貧乏もなさったのですから、どう申し上げてよいやら、ともかく、普通の方ではない、思い切りのよい方でした。

 観音会をお始めのころ、生活はあまりお楽ではなかったようで、電話料が滞って電話を止められそうになったり、おかずも納豆とか目刺しとかのこともありました。それでも、教祖様も、奥様(二代教主)も、貧乏くさいところは微塵もなく、超然としていらっしゃいました。

 そのころ、私の宅と家族ぐるみ親しくさせていただいてました。ですから、教祖様はうちへ来られても、自分の家同様、気ままに振る舞っておられました。黙って上がって、ごろりと横になったり、夜遅く、『寝られないから。』とブラリとおいでになることもありました。よく『鋏かして……。』と言われて、ゆかたの袖口から下がっている糸をご自分で切りながら、『うちの奥さんは、何もしてくれないからね。』と冗談をおっしゃったりしました。けれども、祖父(伝兵衛)はやかましい人だったので、この祖父がいる時は、さすがの教祖様も〝謹厳居士″(謹み深くきちんとしている人)でしたが、私たちにはよく『あのじいさん、苦手だよ。』と言って笑ってられました。

 教祖様のお好きだったものは、近所の秋元という鰻屋の鰻と、きよし〈、、、〉という小料理屋の仕出しでしたが、きよしの主人は武井長英という人で、後に観音会の支部長になった人です。』

 教祖が麹町より玉川へ移ってから間もなく、良三は観音会の会長を辞し、「大日本健康協会」発会の時には、その顧問に就任したが、その後は表立つことなく、陰からの協力を続け、昭和三〇年(一九五五年)四月一四日に帰幽したのであった。

 後に「天国大教会」の会長となり、教祖の高弟として教団発展の礎を築いた中島一斎(本名武彦)が神緑を得て入信したのは昭和七年(一九三二年)一月一日のことである。長女の三保子が疫痢に罹り、四〇度の高熱を出し危篤に陥ったのがそのきっかけであった。中島は友人の話から、麹町で布教をしていた正木三雄を知り、娘の命を助けたい一心で麹町分所をたずねたが、正木の浄霊によって三保子の病状は好転し、みるみる快方に向かって、一週間ほどで全快したのであった。この奇蹟によって中島の人生観は大きく転換した。三二歳の時のことである。この時、命を救われた三保子は、後に、教祖の次男・三穂麿の妻となった。

 中島は明治三二年(一八九九年)、山口県萩に生まれ、生家は代々長州藩士であった。

 中学を出てから母校の萩中学の代用教員を勤めた後、上京して明治大学の商科に学んだが、病を得て郷里に帰った。その後、下関の図書館員を振り出しに、鉱山会社、電力会社、フォード自動車会社、ブリジストンタイヤというふうにサラリーマン生活を続けた。ブリジストンでは若くして課長の地位についたが、その心には常に一抹のむなしさが残り、何か場違いの所に身を置いているような心がどうしても消えず、昭和六年(一九三一年)にブリジストンを退職してふたたび上京したのである。娘・三保子の奇蹟はその直後の出来事であった。

 中島は娘の奇蹟に驚き、正木を介して教祖に会うことになった。こうして、中島の生涯は、自分自身予想もしなかった方向へ歩み出すことになった。教祖の話を聞くうちに今まで胸につかえていたものがみるみる氷解していった。そしてこの人についていく以外に、自分の人生はないと決意したのである。教祖は命がけのその意気に打たれて、即座に弟子入りを許したのである。

 中島はさっそくその翌日から大森へ泊まり込み、一週間の講習を受けて入信、専従者となった。しばらくの間、配布する新聞の売り上げが唯一の収入で、貧乏のどん底という生活をした。野原の土筆〈つくし〉を摘んでおかずにするというような日もまれではなかった。

 しかし、神は中島の信仰に大きな愛と力をもって応えたのである。

 その中には長男・誠八郎の奇蹟もあった。三保子が疫痢になる前のことである。誠八郎が壊疽(身体の一部が菌のために腐敗するとされている)に雁ったのである。初め、ぽつんとした小さなできものであったのが、日増しに腫れがひどくなり、医者にみせたところ、
 「すぐ切断しなければ手首まで広がってしまう。」
と言われ、右手の栂指を、第一関節〈だいいちかんせつ〉のところから切断してしまったのである。まだ教祖を知る以前の話である。教祖は後にその話を聞き、「惜しいことをした。生きたものが腐るということは聞いたことがない。生きてるものは絶対腐らない。」

と言った。だが、その切断した指は教祖の浄霊を受けているうちにやがて元通り回復し、しかも爪まで正常に生えてきた。両親はこの事実を見て、そこに神の大きな力の証しを感じたのであった。

 中島は、井上らと違って、側近の奉仕ではなく、初めから布教の第一線に立った人である。神を求める情熱は、激しい布教へのエネルギーとなってあふれ出た。とともに、疑問に思ったことは納得がいくまで教祖に教えを求めたのであった。昭和七年(一九三二年)二月二二日の『日記』につぎのような一首がある。

 中島氏道の話に遅くまで語らひ分院に宿泊なしけり

 中島は入信後間もなく、故郷の萩にあった屋敷を売り払い、全額を教祖に捧げて、その苦しい経済を支えた。しかも、中島家では主人の一斎を先頭に家族全員がそろって奉仕をしている。母と妹は教祖の麹町進出後、応神堂での家事を任され、妻の暉世子は二人の幼児をかかえて新聞を配布して歩いたのであった。文字通り一家をあげて教祖に信仰を捧げるとともに、一斎は伝道の使徒としての数多くの人材を育て、昭和二五年(一九五〇年)一月、五一歳でその生涯を閉じたのである。

 立教以前から教祖の側近として活躍した人に、また、岡庭真次郎(明治二六年・一八九三年生)、通明(本名遼平)(明治三八年・一九〇五年生)の兄弟がある。岡庭家は長野県飯田の旧家で、父は村長を勤めていたが、中気で倒れてから家族の間に大病が続き、一〇年間に葬式が八つ、家の全焼が二度という災厄に見舞われた。麹町の竹村良三が、娘の養子をこの岡庭家から迎えたことから、両家に姻戚関係ができた。その後、竹村が教祖に、岡庭家の災厄を話したところ、教祖は名前がいけないといって、遼平という名を改め、通明と付けたのである。

 その後、通明は肋膜をわずらうこと三年、ついに医師から見放されてしまった。そして、やっとの思いで上京すると、竹村の家で初めて教祖の浄霊を受けた。
 その時教祖は、
 「三回ぐらいで治る。」
と大変簡単に言ったという。二度目の浄霊は二日後に、兄・真次郎が付き添い、大森の松風荘へ行って受けた。

 教祖は、真次郎に向かって、

 「岡庭さん、あなたが、今にここ(大森のこと)をやるようになるんですよ。」

と言ったが、まだ何もわからない真次郎は、
 「ああそうですか。」
と生返事をするだけであった。

 通明に対する浄霊を終えると、教祖は、
 「どうです。」
と聞いた。通明が、
 「せいせいしました。」
と答えると、教祖はいとも簡単に、
 「もう治りましたよ。」
と言った。真次郎はあまりのことにただ驚くばかりであった。しかし通明自身は、
 「もうなんともない、有難いからお礼に掃除当番に置いていただきたい。」
と頼んだという。

 数日後、通明はその言葉通り大森へ来て奉仕を始めた。その翌月、教祖は富士登山をしたが、通明もこれに参加し、回復後間もない身体ではあったが、無事に行を共にできた。富士登山の翌日、教祖は通明に、観音像と御手代とおひねり〈、、、、〉を与え、

 「信州へ帰って支部を作り、人を救うように。」

と命じた。 その御手代は、一本の扇で、扇面に、
 「万霊を浄めて救ふ此扇」

と記されていた。

 通明は信州へ帰り、布教を始めたが、その年の一二月ふたたび大森へ帰り奉仕生活にはいったのである。一方、兄の真次郎は弟が救われて以来毎日のように大森に通い、教祖の話を聞くうちに、しだいに決心が固まって、昭和七年(一九三二年)一月から、大森で奉仕生活を始めた。そして昭和八年(一九三三年)には教祖の言葉通り大森の支部長に任命されている。ここにも、教祖の言霊の力と、それに呼応するように、すべてをなげうって教祖の言葉に従った先達の尊い姿を見ることができるのである。 岡庭兄弟は共に凡帳面な性格であったから、どんな些細なこともゆるがせにしない教祖の手足となって、側近の奉仕に努めた。真次郎は昭和二九年(一九五四年)六月一五日、享年六二歳で、通明は昭和四五年(一九七〇年)二月二三日、享年六四歳で帰幽したのである。

 昭和六年(一九三一年)の暮れのことであった。東京の亀戸で鉄工所を経営する荒屋乙松(明治三一年・一八九八年生)という大本の信者が教祖のもとを訪れた。弟の和作(明治三四年・一九〇一年生)の妻が病気で、教祖の浄霊を受けていた。乙松は、弟から教祖のことを聞き、和作と一緒に大森へ出かけて浄霊を受けると、重かった頭が軽くなり、元気がわいてきた。乙松は教祖に挨拶して帰る時に、
 「こういう強い力をいただくには、何十年かかりましたか。」
と尋ねた。すると教祖は、
 「なあに、これは素直にやれば、誰にでもできるんです。あなたにだってできるんですよ。」とこともなげに言い、さらに言葉を継いで、
 「あなた、やる気がありますか、すこし修行すればできますー。」
と言った。しかし、とても自分にできるとは思われず、突然のことに、困惑して何も言えずにいた。すると教祖はじっと見据えるようにして、
 「あなたはこういうことをしなければならない人に生まれてきているんです。」
と言った。このことがあってから、乙松はしばしば大森へ行くようになった。行かずにはおれない、何か強く引かれるものがあった。それは、いやおうなく引きつけられる不思議な力とでもいうべきものであった。そして行くたびに病人が次々と癒されていく奇蹟を目のあたりにし、ただ驚くばかりで、教祖に対する尊崇はいよいよ深まった。

 乙松はその後、教祖揮毫の観音像を祀り、月次祭には教祖に来てもらうようになった。来訪を請うと、
 「ああ行きますよ。」
と気軽に言って、いつも来てくれたのである。当時はまだまだ信者の少ないころのことで、教祖はあちこちへ気軽に出向いたのである。乙松の家に来て食事をすることがあったが、教祖は何を出してもおいしそうに食べ、愉快に話をしたという。荒屋乙松はその後間もなく、鉄工場をやめて神業の道にはいった。
 「君は江東支部をやりなさい。」
と言われしばらく下町方面を布教した。そしてある程度の信者ができたころ、今度は、
 「世田谷へ行きなさい。」
と言われ、昭和九年(一九三四年)一〇月二六日、渋谷にほど近い、世田谷区三宿町五四へ移って布教を続けた。まだ浄霊を許されていなかったので、布教の手段は新聞配布だけであった。乙松は妻・秀子と二人で配布に取り組み、一部二銭の新聞の売り上げの一部で暮すという毎日であった。神業に参加できる喜びは何ものにも代え難いものであったが、昭和九年(一九三四年)の暮れには貯金も使い果たし、正月を越すのがやっとという厳しい生活であった。

 昭和九年(一九三四年)一二月二六日、「大日本観音会」世田谷支部として正式に発足すると、兄・乙松が支部長に就任し、弟・和作が次長に任命された。その三日後の二九日のこと、教祖からすぐ来るようにという呼び出しがあった。年の瀬を迎えて、乙松にはあいにく電車賃の持ち合わせがなく、三宿町からそのころ教祖の住まいであった麹町区平河町の応神堂まで十数キロの道のりを歩いて行った。すると教祖は、

 「あんたはこの三年間よくやった。今日までの修行でご神業の大略はわかっただろう。今日から施術(浄霊)を許すから大いに人を救うことに励むように。」

と言って御手代を与えたのである。尊い力を許された喜びを、苦楽を共にしてきた妻に伝えたい一心で、来た道を一散に走るようにして帰り、共に喜び合ったという。

 乙松は後に、岩手県一関市を中心として布教に専念し、「進々教会」(後に「神進教会」と改称)を設立したが、昭和四二年(一九六七年)八月七日、七〇歳でこの世を去った。一方、弟の和作は郷里の石川県能登の中島町に帰り布教し、「正和教会」を設立した後、昭和三九年(一九六四年)七月三〇日、享年六四歳で帰幽したのである。

 もう一人、草創期の教団にあって、側近で神業に携わった人物に清水清太郎〈通称・義仁)がいる。大正時代、商売のうえで教祖に接し、やがて専従するようになり、その文オを生かして出版関係を中心に、神業に奉仕した。

 清水は、明治三一年(一八九八年)三月、福井県遠敷〈おにゅう〉郡遠敷村の生まれで、一四、五歳のころ、この地方特産の瑪瑙細工〈めのうざいく〉の技術を習得〈しゅうとく〉して一九歳の時に上京、東京九段下で宝石加工業を始めた。大正七年(一九一八年)のことである。

 大正一二年(一九二三年)の春から、岡田商店へ出入りするようになり、初めのうちは支配人の木村金三から注文を受けるだけであったが、やがて、奥の別室にいる主人・教祖から直接注文を受けるようになった。そのころ、教祖みずから作った図案は、必ず自分で直接注文することになっていた。清水は当時を回想して言う。
 「教祖は、マドロスパイプを吹かしながら応対していました。そして、注文通りのものができた時は非常に喜び、値切ることもなく、いいお得意さんでした。しかし、気にいらないと、何度でもやり直しーこれには弱りました。普通の問屋だと、値さえ安ければ、少しくらいのことは大目に見てくれるのですが、教祖は頑として聞きませんでした。」  

 昭和三年(一九二八年)、清水は教祖に勧められるまま大本に入信し、本部へ修行に行っている。当時、清水は、東京府豊多摩郡杉並町馬橋一二七番地に住んでいたが、大学生であった井上茂登吉と知り合い、その熱心な信仰心、とくに教祖に対する一方ならぬ尊敬の心に感銘し、井上のために自宅を改築して寄宿させ、毎日のように連れ立って大森の教祖の所へ通ったのであった。

 前に記した通り、教祖は、みずから主宰する笑い冠句の会「天人会」を、昭和五年(一九三0年)九月に創立した。短歌の方も大本の「明光社」とは別に、「瑞光社」というのを作って、 昭和六年(一九三一年)五月に発足させたのであった。瑞光社は、本拠を馬橋の清水宅に置き、清水が社長となり、月刊誌『瑞光』を発刊することとなったが、その編集や校正は、ちょうど同家に寄宿していた井上が担当した。

 この『瑞光』の第一巻第一号(昭和六年六月号)には、同年五月三日、午後六時から清水宅で開かれた、瑞光第一回短歌会の記事と記念写真が掲載されている。井上の執筆したこの記事によると、その日の夕方出席した教祖は、「宗教と芸術」という講話をしたあと、歌会で「山」と「光」という二つの題のもとにつぎのような歌を詠んだ。
山、光

武蔵野は見渡すかぎり青葉して富士ケ嶺清〈ねすが〉し梅雨霽〈つゆば〉れの空

瑞御霊素盞能神〈みずみたますさのおおかみ〉にはじまりし和歌は御国の光なりけり

 *『古事記』に須佐之男命の歌として「八雲立つ出雲八重垣妻龍みに八重垣作るその八重垣を」と出てくるのが和歌の始まりとされている

 この日、竹村良三や正木三雄らも出席し、合計二五人の参加者があった。
 この「瑞光社」は、昭和七年(一九三二年)に「松風会」と変わり、さらに観音会発会後は「紫苑会」と改められ、その本拠は麹町の仮本部に置かれて、教祖が会長、清水は次長となっている。

 福井県小浜市国府にある国分寺は、清水家の菩提寺で、清水は幼少のころから、よくこの寺に遊びに行っていた。そこの住職の弟が、後に千葉県鋸山の日本寺の住職となった田中常説である。したがって、清水と常説とは幼友達であったわけで、日本寺参拝の神事にあたって、その準備を清水が担当したのも、こうした縁があってのことであった。

 昭和一〇年(一九三五年)、観音会発会の時、清水は理事となり、また機関紙『東方の光』の編集、発行を担当、「文哉〈ぶんさい〉」の号で健筆をふるった。その後、昭和一五年(一九四〇年)から教祖の側近を離れ、岩手県水沢市で鉱山関係の仕事に従事した。清水の母・サヨも、昭和七年(一九三二年)以来教祖に仕え、とくに教祖の四男・六合大〈くにひろ〉の養育に専念し、昭和三六年(一九六一年)八三歳の長寿をまっとうして帰幽したのであった。