観山亭

 箱根・神仙郷において、教祖が最初に建築を手がけた建物は「観山亭」である。戦時中とはいえ、来客も多く、そのうえ、何人もの奉仕者をかかえていた教祖が、落ち着いて神務に携わることのできるように専用の住居の必要を感じて建てたものである。

 神山荘の北寄りの斜面を整地して、三十余坪(約一〇〇平方メートル)の平地を造り、ここを用地として、建築が始められた。当時はまだ戦争のさなかで、建築物は一五坪(約五〇平方メートル)以下に制限されていたので、ぎりぎりの一五坪の家を建てることにした。ところが、肝腎の材木が思うにまかせない。そこで思い付いたのが、数年前、宝山荘で離れを建てようとして買っておいた用材のことである。土地の係争問題のため、裁判所から建築停止命令を受けてそのままになっていたので、これを転用することとした。しかし、用材は確保できても、問題はその輸送である。家一軒分の材木を東京から箱根まで運ぶにはトラックやガソリンがいる。
戦時中はそんなことさえ民間人には大変なことであった。幸い、軍関係の信者の尽力によってこの障害も解決し、ようやく建築への道が開かれたのであった。

 ところが、いよいよ建築が始まると、またひとつ問題が生じてきた。それは職人の食糧を確保することである。観山亭の建設が開始された昭和二〇年(一九四五年)三月には、食糧事情は最悪の事態を迎えていた。職人は食糧の支給がなければ、買い出しのために、しばしば仕事を休むので、それだけ仕事が遅れてしまう。幸いに教祖のもとには、地方の信者から寄せられた奉仕米があった。教祖はこの米を職人に融通したのであった。

 ある日のこと、一人の弟子が、そのころの代用食であるウドン粉の粗末なふかしパンを教祖が食べているのを見て、内心、米を売って生活費にでもあてているのではないかと想像した。
すると、その心を見抜いたのであろうか、教祖は、

 「この観山亭で、わたしは仕事をする。これができあがると、それだけ人類が救われるのだ。その建築の仕事をやってくれる職人の腹を空かしたら工事が遅れる。だから米は職人に食べさせている。」

と話したのであった。

 こうして、ようやく建築が軌道に乗り、三分の一ほどできあがったころである。空襲がいよいよ激化して、職人に融通する米が底を突いてしまった。すると、ちょうどそこへ、弟子の一人の大槻恭嗣(後の「更生教会」会長)が白米六俵を入手してトラックに積み、教祖のもとへ届けてきたのである。このことによっても、教祖は工事を続行するようにという力強い神意を感じた。建築はその後滞りなく進められ、観山亭は着工以来、一年五か月後の昭和二二年(一九四六年)八月、戦中戦後という社会状態の最悪の条件の中で無事完成をみたのであった。わずか一五坪(約五〇平方メートル)の家にしては長い期間を要しているが、さまざまな障害を乗り越えた足取りがこの数字に現われているといえよう。

 観山亭の建築には、教祖の力徳を物語る神秘な逸話が伝えられている。

 昭和二〇年(一九四五年)の夏のことであった。土台ができ、柱も立ち、屋根を葺く段取りになった。ところが屋根を葺き始めて三日目、あと四、五〇センチを残すばかりとなった時に、にわかに空が暗くなり、真っ黒な雲が現われた。山の天気は変わりやすい。観山亭に造る琵琶床(本床のわきに広さ畳半分、高さ一尺・約三〇センチメートルほどの高い部分をしつらえたもの)の下見のために、たまたま来合わせていた鎌倉彫りの工芸家・村田一生は、雨を心配して雲の様子を眺めていた。すると屋根屋があわてて飛んで来て、
 「村田さん、困っちゃった。降らないうちに葺き終えてしまわないと柱にしみ<ヽヽ>が着いてしまう。大先生(教祖)になんとか申し上げてくださいよ。」
と頼むのである。あと三〇分か四〇分、大事をとって一時間もみれば仕事は終わると屋根屋は言う。村田はさっそく側近の井上茂登吉を通じて、このことを伝えた。すると教祖はすぐに駆け出してきた。
 「どうしたんだ?」
 「じつは、今にも雨が落ちてきそうで……。」
 「よし。どのくらいかかる?」
 「あと一時間あれば葺き終わります。」
 「うむ、しかし、ギリギリにして、どのくらいなんだ?」
 「四〇分です。」
 「そうか。」
とうなずいた教祖は、じつと空を見上げていた。その間二、三分ほどであったが、そばでその様子を見ていた村田には、非常に長いものに感じられた。ややあって教祖は振り向いて言った。
 「これでよろしい。早く葺いてしまいなさい。」

 屋根屋が急いで葺き終わり、梯子を降りようとしたその時である。いきなり抜けるような物凄い雨が降り始めた。ところがその雨は、観山亭のまわり、およそ三間(約五メートル)くらいは降らずにいるのに、その先は大雨であった。入信したばかりであった村田は空をにらむ教祖の様子に半信半疑であったが、今こうして、そのただならない力を目のあたりにし、思わず慄然として、身震いするような畏れを感じずにはいられなかったのである。

 観山亭はその名の通り、室内から東の方の大文字山(明星ヶ岳)をはじめ、明神ヶ岳、南の浅間山などを一望に収めることができる。暑い夏でも、深い軒は涼しい日陰をつくり、吹く風は清涼な山気を運んでくるのである。教線の拡大に伴い、ますます多忙を極める生活であったが、この観山亭からの眺めは教祖の心にどんなにか安らぎと憩いになったことであろうか。
また、教団幹部や美術商をはじめ、多くの人々との会談に使われたのも、また数多くの教えが口述され、推敲されたのも、この観山亭である。
ここは、箱根・神仙郷における神業の中心の場として、その後重要な意義を担っていくのである。