遺託に応える

 よ志は教主を継承するにあたり、敬虔な祈りを込め、神前においてつぎのような誓いの言葉を述べた。 「明主様がご昇天前に仰せられておられましたご趣意通り、ご昇天遊ばされました今日、ただちに役員会において、満場一致をもって、私を二代教主として推戴と決定しましたので、その申し出を受けさせていただきました。

 よって、明主様地上天国建設のご構想をお引き継ぎ申し上げ、現界のご用に励みますので、なにとぞ霊界からご守護をお願い申し上げます。」

 この誓いにもあるように、教祖は昇天の数日前、よ志に対して、

 「神界のご都合上、昇天するようなことあらば、霊界より守護するゆえに、あなたは現界において、人類救済、地上天国建設の聖業につとむるように。」

と話したのである。それは夫としてではなく、神の経綸を伝える教祖の立場から述べた厳命であった。

 教祖はさらに言葉を継いで、

 「随分君には無理を言ったなあ。」

と感慨深げにしみじみとした調子で言ったので、よ志はその時初めて、それまで教祖が自分に対してとってきた厳しい態度が、このための修行であったことを覚ったのであった。

 二代教主・推戴式は、教祖の五〇日祭の前日である昭和三〇年(一九五五年)三月三〇日、午前一〇時から、救世会館において開催された。この日、多数の来賓をはじめ、七〇〇〇名に及ぶ信者が参集したのである。教祖の昇天に直面して、一時は茫然自失した信者も、悲しみの中から立ち上がり、二代教主を先達とし、天界の教祖の心を求めて進む決意を固めたのであった。

 記録を見ると、教祖は昇天に先立つこと一年余、浄化にはいる直前の昭和二九年(一九五四年)一月から三月にかけて、熱海・咲見町仮本部での面会の席上、将来の構想について、熱を込め、繰り返して話をしている。このことは、あたかも教祖が、四月から始まった浄化、さらに昇天ということを予知し、その準備をしたのではないかという思いさえいだかしめるものがある。

 たとえば、昭和二九年(一九五四年)の正月早早に、つぎのように述べている。

 「美術館の方は来年になります。これが出来ると世界的の話題になるだろうと思います。世界中の注目を引かれるわけです。と言ってもまだ中途ですけれども、すっかり出来上ったら大変なものです。」
 「その結果、“一体救世教とは何だ”という事になり、“岡田茂吉という人物がやっている”“それは一体どういう人物だ”という事になって、……岡田研究という事が始まるだろうと思います。」

 すなわち、世界中の人々が教祖の書いた著書を読み、まず医学や農業の誤りがわかるようになり、やがて世界救世教は普通の宗教ではない、救世教の言っていること、していることを世界に敷衍<ふえん>することによって、世界は間違いなくよくなる、というところまでわかるようになると話しているのである。

 一月下旬の面会の時、教祖はつぎのような興味ある話をしている。それは、すでに記したジャパン・タイムズの婦人記者エリーゼ・グリリに関するエピソードである。

 グリリは、教祖の思想や事業に共鳴し、「箱根、熱海の天国の雛型は、将来ナイヤガラ瀑布<ばくふ>と同様、世界的名所になるであろう。」と賞賛の言葉を惜しまなかったが、この昭和二九年(一九五四年)一月には、日本の大新聞の記者数人に対し、“岡田茂吉のPR(宣伝の意味)”をしたのである。

 グリリは六年前の昭和二三年〓九四八年)に来日したが、やがて日本に土地を買い、家を建て、畳住まいで、日本人と同じ生活を始めた。これほどに日本を愛し、好きになったのは、日本人が世界で一番優れ、ほかにない、すばらしいものをもっていることを発見したからだという。

 日本人記者を集めてグリリは、
 「自分は今まで、いろいろな日本の偉い人に会ったが、岡田茂吉氏が一番偉いと思う。あなた方は、なぜこれを新聞に書かないのか。」
と聞いたのであった。記者たちはびっくりして、

 「あそこには面白くない事がある。」
と、裁判の結果、有罪になり、執行猶予中である件を述べた。これに対してグリリは、「そんな事は何か、小さなことである。大きな事業を始めれば、どうしても不行き届きが生まれて法に触れることが起きてしまう場合もある。それはよくはないが、仕方がないことである。それよりも、岡田氏が病・貧・争絶無の天国を地上に造ると宣言しているが、これほど大きな事業があるか。おそらく、世界でもまだ前例がないであろう。

 私は日本に来て、日本人の偉さをこの岡田氏によって発見した。これを新聞に取り上げないという法はないではないか。」
と、大いに弁じたというのである。

 越えて、三月中旬の面会で、教祖はこのグリリが案内してきたアメリカ婦人のことを話している。その人はエレン・プセティ(結婚してエレン・コナントとなる)といい、アメリカのフルブライト奨学金による派遣留学生として日本の文化財研究のため、二年の予定で派遣されてきた人である。とくに著名な画家・竹内栖鳳を研究することを主たる目的にしていたので、教祖のコレクション(蒐集品)を見せてもらうためにたずねたのであった。

 その日は、栖鳳の長男の竹内逸が通訳兼案内役として同行をしている。その時の話から、教祖は、アメリカが日本文化に大変強い関心をもっていることを知った。教祖はその話を聞き、美術の普及を通して世界平和に貢献するための構想を、より明確にしたようである。それは、やがて完成されるべき熱海の美術館を世界的文化交流の中心の場とするものであった。翌一六日、面会のおりに信者に対して語ったつぎの言葉から、その構想の一端をうかがうことができる。

 「熱海の美術館は、各国の専門家やそういった希望の人達が一年に一回とか、半年に一回というように来て、各国に美術館を造るとか、あるいはその国の特長のある美術品を交換する……と言っても貸し借りして、世界的に美術思想を大いに涵養するという、そういう機関、つまりユネスコ<*>的の文化財方面というような機関、そういうものが出来るだろうと思ってます。それで熱海の美術館を本部にするというような事にして、そうなると大変な大きな事業になります。無論神様が世界に地上天国を造る、その一つの準備になるわけだから、無論出来るに違いないですが、そういうふうになって来たという事は、余程面白くなって来たと言えます。」

 *国際連合教育科学文化機関の略称。昭和二一年(一九四六年)に設立され、日本は六年後に加入している。昭和二七年(一九五二年)教祖は、みずから蒐集した、初期肉筆風俗画の名品「揚女図」(重要文化財)の木版による複製品を作らせたが、それを掛軸に表装してユネスコに寄贈している

 このころ教祖は、「救世教とは何ぞや」という論文を書いているが、その冒頭に、

 「この文を書くに当って、前以て断っておきたい事は、我が救世教は純然たる宗教ではないのである。と言っても、一部には宗教も含まれてはいるが、全部でない事は勿論である。では、何故救世教の名を附けたかというと、何しろ有史以来夢想だもしなかったところの画期的救いの業である以上、やむを得ずそう附けたまでであって、特殊の名前を附けるよりも、この方が分り易く親しみ易いからで、これを率直に言って宗教以上の宗教、即ち超宗教であり、空前の救いの業と思えばいいのである。」

と記して、世界救世教の活動が、宗教を一部分として含む超宗教的救いの業であることを強く訴えたのである。

 このように教祖は、“箱根、熱海の地上天国の雛型が完成するや、世界救世教は世界に知れわたり、これにともなって、本数の教えや救いの業が理解されるようになり、また、岡田茂吉なる人物の研究も始まってくるであろう。とくに熱海美術館の完成は、世界の文化活動に大きく寄与することになるが、これを通じて、世界の平和と、新文明の創造に大きく貢献することこそ、救世教本来の使命にほかならない。しかもその時がいよいよ近づきつつあるのである。”と、雄大なその構想を、面会の席上、繰り返し話したのであった。

 この教祖の構想は、今日、MOA活動として、世界の各地に花開きつつあるが、これこそ教祖の遺託(遺志として後世に委託すること)に応える最たるものである。在天の教祖は、必ずや喜びをもって、これを照覧していることであろう。

 教祖昇天後、教団の行く手は平坦な道ばかりではなく、幾多の波乱が待ち受けていた。ときには教団そのものの存在が危ぶまれたことさえ一再ならずであった。しかし、そのような危機に直面した時にも、教祖の心を守り抜こうとする人々の手によって、危機は乗り越えられ、困難はより大きな飛躍のための浄化とすることができた。こうしたおりおりに、関係者は天界からの教祖の厚き守り、導きを痛感したのである。

 教祖はかつて、

 「今に、食物が山のように沢山あっても、食べられないものばかりという時代がやってくる。」

と言ったことがある。それからわずか三〇余年の今日、われわれの周囲はどうであろうか。
 農薬や廃水、そのほかによる農産物や水産物の汚染、薬づけの食肉類、さらにさまざまな食品添加物等々、今日われわれが入手する食品のうち、安心して口にできるものは一体どれほどあるであろうか。この一事をもってしても、教祖の予言の確かさには襟を正さずにはおられない。

 教祖の論文は、人類の健康の問題から、政治・経済・文化など、人間社会の存立にかかわる、あらゆる問題に言及して、そのあるべき姿を示している。そして、西洋に生まれた優れた物質文明に、東洋の精神文明を融合させ、人類に真の幸福をもたらす、新文明の創造こそ理想であるとして、そのための具体的な道を示しているのである。

 敗戦の焦土から立ち上がり、今や経済的には世界のトップに立つ日本であるが、繁栄のかげに数多くの問題をかかえていることは改めてここに記すまでもない。日本ばかりでなく、世界の国々は、物質文明の進歩にもかかわらず、それぞれに深刻な問題に直面し、矛盾、混乱にあえいでいるのが実情である。しかも、世界は、核武装によってバランスを保ち、わずかに平和の仮面をかぶっているに過ぎない。多くの人々が、不安と苦悩に呻吟している今日ほど、天国的救いが衷心から待ち望まれている秋<とき>はないであろう。

 教祖の説き明かした真理の教えと救いの力が、今こそあまねく全人頬に宣べ伝えられなければならない。

 救世の神力揮はむ今し世は崩れんとする前夜なりせば

 永遠に冬なき夜なき天国に魂安ませむはや来れかし

 明治一五年(一八八二年)、教祖が産声をあげた浅草・橋場の地には、昭和四七年(一九七二年)に生誕記念碑が建立された。その台石に刻まれているつぎの言葉は、昭和一〇年(一九三五年)に「大日本観音会」発会にあたって教祖が唱えたものである。今これを読む時、教祖の、東方の光としての自覚と、真・善・美全き光明世界建設に向かっての、その熱意が、その永遠の願いが、昇天後も変わることなく、脈々と生き続けていることを、痛感しないではいられない。 

 神は光にして光のあるところ
 平和と幸福と歓喜あり
 無明暗黒には
 闘争と欠乏と病あり
 光と栄へを欲する者は来れ