神人在茲

 昭和二七年(一九五二年)一〇月四日、教祖は箱根で、当時読売新聞社・科学部次長であった為郷恒淳と対談したが、その中で、

為郷 その(光の)〈*〉玉と言ふのは明主様だけがお持ちになって居られるのですか。
教祖 そうです。
為郷 そう致しますと、仮に明主様が百年の後に霊界にお這入〈はい〉りになりますと、ない事になりますが……。
教祖 しかし霊界から出しますから同じ事です。かえってよく出ます。体があると邪魔になりますから。

と述べ、昇天しても、生前と同様に、むしろそれ以上に、光は信者に取り次がれることを、教祖は明確に答えている。

 *( )内は編集者・挿入

 教祖が揮豪した数多くの書の中に、「永遠生命」という文字がある。これは、地上での生命を全うした後にも、魂は霊界において永遠に生き続けるという意味であるが、この一行には「可能な限り人類を救いたい。」という教祖の救世にかけた信念、悲願が余すところなく込められている。

 昇天の後、今日にいたるまで変わることなく、いよいよさまぎまな奇蹟が相次いでいる。しかも、広く世界の各地から、救われた喜びの声が数多く伝えられている。この事実こそ、「霊界から光を出す。」と語った言葉通り、教祖が天界に在って、永遠に生き続け神業を行なっている証しにほかならない。

 教祖は神とみずからの密接不離な関係について、時とともに、その自覚を深めていった。

 すでに記した通り、昭和元年(一九二六年)、観世音菩薩が教祖に働きかけ、教祖出生の因縁やその使命をはじめ、夜昼の転換、神の経綸など、もろもろの神秘を教祖に知らせた。この啓示によって教祖は、腹中に神から与えられた光の玉が存在することを知ったのである。
 当時すでに、

 「実に不思議だ、ちょうど傀儡<*>に操られている私は人形でしかない。

 そればかりではない。その頃から私は今迄知らなかった色々な事が判るのだ、初めはそうでもなかったが、時の進むに従って、それが益々著しくなるのだ。以前私は学んで知るを人智といい、学ばずして知るを神智という事を聞いた事があるが、そうだこれだなと思った。確かに神智である。何かにぶつかるやその理由も結果もすぐ判る、考える暇もない程だ。といっても必要な事のみに限るのだから妙だ。信者から色々な質問を受けるが、咄嵯に口をついて出てくる。そういう時は自分の言葉で自分が教えられるのだから面白い。」

 *人形つかい
 
「自由自在に私の肉体を使はれるのである。全く私を機関として一切衆生を救はせ給ふのである。」
という神と共にある自覚に立っていたことは前に記したとおりである。
(上巻二六五頁参照)

 しかし、その一方でまた、教祖が、ときに神と一歩距離をおいた境地に立っていたことを示す事実も伝えられている。

 昭和二三年(一九四八年)の脱税事件が起こった時のことである。教祖はこれに関し神意を尋ねた。すると神は何もいわず、ただ何々大笑(大声で笑う)するだけであった。

 「神様は何事も言われず、只何々大笑されるのみで、私はハハア心配するなとの事と解したのである。ところが日の経<た>つに従い果してその通りであったので、今度は私の方も何々大笑したので、こんな事も度々あった。」

と、後に話したことがあったが、これなどは、神にうかがいを立てた一例といえよう。このように、ある時は神と一体になり、またある時は距離をおいた境地で神業は進められていった。そして昭和元年(一九二六年)の神の啓示から四半世紀を経た、昭和二五年(一九五〇年)の法難事件にさいし、教祖が神人合一の立場を徹底していくうえで大きな神事が訪れたのである。

 「ここで言いたい事は現在の私である。それは静岡事件の際留置所の中で、すこぶる神秘な神業が行われた事はいつか話した事があるが、その時私の体内に入られたのが最高最貴の○○○○<*>の神様であって、出所早々散花結実の書を千枚かいて主なる信者に頒ち与えたのも、その時の経綸によったのである。ところがその時から後の私は、以前のように神様に伺う事は必要がない事になったのである。というのは神霊は私の体内に在す以上、以前のように神と人との隔てが撤去され、神人合一の境地になったからである。つまり神即人である以上、私の行う事は神直接であるから、私の思うままをやればいい事になったのである。」
 
*「○○○○○」は、教祖自身の表記による

 この「神人合一」ということについては、教祖はおりに触れて話をし、また、

 人にして人にしあらず神にして神にしあらぬわが身思へば

と歌にも詠み、さらに本書、上巻の冒頭に掲載した「神人合一」のような論文も書いたのである。この論文の中で、教祖がとくに強調している点は、真の神人合一は、神意の伝達者とか、神の取次者とはまったく異なって、神と人が完全に一体となり、言動すべてが神直接であるということである。

 神人合一の境地に立った教祖の力徳は、教祖が書いたお守りにも明らかに見ることができる。

「揮毫」の項において記したように、教祖は「光」のお守りならば、楽に一時間五〇〇枚、一枚平均七秒で書き上げた。しかも、その時の教祖は、斎戒沐浴というようなことはまったくしないし、また、祈るというわけでもなく、ラジオを聞いたり、話をしたりしながら書くのであった。それでいて、その光の書を首に掛けた人は、それだけで何千何万もの人々の苦悩を救い、幸福に導く力を授かったのである。

 このようなことはもちろん、お守りばかりではない。教祖はつぎのように書いている。

 「これほど絶大なる力をもつ私としたら、何物も分らない筈はない。信者はよく知る通り、いかなる事を訊かれても、私は答えに窮した事はない。又遠方の人で病苦に悩んでいる場合、よく電報などで御守護を頼んでくるが、それだけでお蔭を貰う人も沢山ある。それは私の耳に入るや、一瞬にして光の一部が分裂してその人に繋がる。これによって霊線を通じてお蔭を頂くのである。この様に光は何万倍にも、どんなに遠くても放射され、連繋されるのだから重宝である。一層判り易くいえば、私から放射されるものは、言わば光の弾丸である。言う迄もなく普通の弾丸と異う処は、彼は人を殺すが、吾は人を生かす。彼は有限であるが、吾は無限である。」

 面会のおり、教祖はしばしば、
 「特に危急の場合は、『大先生<*>御守護を御願ひ申し上げます。』と言ったら宜しい。」

と話していた。

 *昭和二五年(一九五〇年)以前の教祖の呼び名

 この言葉通りに、交通事故や火事にあうなど、緊急の事態のさい、
「明主様、ご守護をお願いいたします。」
と念じて、危機を脱し、生命を救われた事例は枚挙にいとまがない。その実例の一つ一つが、教祖の神人合一を証<あか>すものであり、まさに「神人在茲」(神人ここに在り)の奇蹟である。