京都旅行において教祖は、重大な神意を感得した。それは箱根及び熱海とともに第三の聖地を京都に建設するということであった。教祖は火としての箱根、水の熱海、土の京都、この三つの地に聖地が完成することによって三位一体が構成され、神業はいよいよ進展するという霊感を得て、京都・聖地の必要性を説いた。この言葉は、早くも翌二七年(一九五二年)の春、 三度目の巡教のさいに具体化したのである。
京都の北西の地、嵯峨野には広沢の池という閑寂なたたずまいの池がある。
ここは昔から月の名所とされ、秋には貴賤を問わず、京洛の人々が池のほとりにたたずみ、月をめでた所である。三尾から愛宕の山並へと連なる丘陵が穏やかに起伏するその麓に、いにしえのひなびた田園風景をそのままに残して、広沢の池がひっそりと水をたたえる美しい土地である。
初めての巡教三日目の昭和二六年(一九五一年)四月三〇日、この地を訪れた教祖は、一目見て気に入り、そのあたりの土地を手に入れるように指示した。翌二七年(一九五二年)にはいって、広沢の他に隣接する土地がおりよく売りに出されたのである。ここは戦時中、中国大陸で活躍し、華北交通の総裁をつとめた宇佐美寛爾〈うさみかんじ〉の所有する邸宅であった。そこで、さっそく交渉したが、あまりに高額なので話はそれきりになってしまった。ところが、その年の秋、宇佐美家の方で急に資金が入用となった事情からか、金銭面での折合いもつき、急転直下、購入の話がまとまったのである。
この宇佐美の邸宅が入手されたのは、同年秋の巡教前のことであった。教祖はさっそく、この邸宅を春秋庵と命名し、以後ここを関西巡教の拠点として活用することにした。さらに、道 路を隔てて隣接する土地、家屋(現在の池畔亭)も購入することができ、この地を「平安郷」と 命名して、第三の聖地に定めたのである。
ちなみに、宇佐美家との縁はこの土地ばかりではなかった。翌昭和二八年(一九五三年)には、同家の所蔵していた郊壇官窯音磁大壷(中国・南宋時代、杭州の政府直営の窯で作陶され た青磁の大壷)という世界的名品が手にはいることとなり、教祖の蒐集をさらに充実することとなったのである。 教祖は、日本の伝統文化の豊かな京都の地に位置する平安郷に、大きな期待をもっていた。そこで、春秋の巡教のおりには、必ずここを訪れて、ここで造営の報告を聞き、あれこれと指図〈さしず〉をしたのである。
昭和二八年(一九五三年)一月、造営部長となって平安郷の造園を担当したのは「神聖教会」会長・中村海老治である。
中村は造営部長として、関西在住の教会長と協力しながら、教祖の指示に基づいて平安郷の造成に力を入れたので、草木の茂るにまかされていた平安郷は、落ち着いたたたずまいの嵯峨野にふさわしく、整備されていったのである。
中村は昭和一九年(一九四四年)、病弱なわが子が浄霊を受け、快癒したのをきっかけにして、 渋井総斎から講習を受けて入信し、周囲の人々に浄霊を取り次いだ。ところが思ってもみなかった奇蹟が、次々と起こったことから、専従の決意を固めたのである。しかし間もなく、召集令状を受け、陸軍に入隊する身となったが、軍隊の中にあっても積極的に浄霊を続けた。そして終戦後、復員するとすぐに大阪で布教を始めた。救世の情熱と大きな包容力によって、たちまち教線は大きく伸展し、数年後には、「神聖教会」の発足を許されたのである。
その後要職を歴任した後、昭和三七年(一九六二年)一二月四日、享年五六歳で帰幽した。