初の巡教

 教祖は昭和二六年(一九五一年)の五月から、毎年、春秋二度にわたって中部、関西両方面への巡教を始めた。それは、増加の一途をたどるこれらの地域の信者に親しく浄霊と講話をし、より高く純粋な信仰へと導くことを目的としたものであった。そしてまた、あわせてこの機会に、京都と奈良をたずね、主として古都及びその周辺の、歴史的に由緒ある宗教建築、仏像、神仏画、日本庭園等、宗教芸術の精髄に触れるという目的もあった。それは日本の伝統美の世界を、それが育まれた地において味わい学ぶという、美術研鑚の旅でもあったのである。

 五月二九日、教祖が乗った車は熱海をたち、一路西へ向かった。途中、名古屋の中京教会に立ち寄り、中部地区の幹部、資格者約五〇〇人に対して講話をしてから、ふたたび車で京都へ向 かった。

 亀山から鈴鹿峠を越え、やがて琵琶湖をのぞむあたりに着くと、古来歌に名高い瀬田の唐橋が見えてくる。この橋に立って眺める琵琶湖の夕映えは、「瀬田の夕照」として、古くから近江八景の一つに数えられている。ここはまた京都盆地の東の入口でもある。
 この日、関西方面の弟子、信者、数百人が教祖を出迎えたのは、この瀬田の唐橋の袂であり、その後、この方面の巡教のさいは、ここで教祖を迎えることが習わしとなった。

 南禅寺の木村別邸で一夜を過ごした教祖は、精力的に離宮や仏閣、美術館などを見て歩いた。教祖が訪れたのは江戸初期に創建され、その庭園美と日本建築の粋をもって名高い桂離宮、苔庭で知られる西芳寺、有名な石庭のある竜安寺、法然の教えを洛東の地に守り続ける法然院、 洛北に自然の地形をみごとに生かした、雄大なたたずまいの修学院離宮、仏像の胎内に布製の内臓が収められていることで名高い、嵯峨野の浄土宗・清涼寺、一休、沢庵らの名僧を輩出した臨済宗・大徳寺派の総本山・大徳寺、一代にして財を築き、晩年はみずから、能の世界に没頭した実業家・野村徳七*の別邸、浄土真宗・本願寺派の総本山・西本願寺などである。

・野村証券初代社長。別に熱海にも別荘がある

 銀閣寺に近い法然院では、正午過ぎと三時半の二度にわたって、数千名の信者に講話をし、さらに三一日に、大阪の「大浄教会」 においても、参集した信者に講話をしたのであった。

 教祖を迎え、これらの会場に参集した者はもちろんのこと、三日間にわたる初夏の旅の先々で、信者の顔は喜びに映え、うやうやしく合掌する者も多く見られた。その純一な帰依、法悦の姿に接し、教祖の胸中にもまた、限りない喜びが満ちあふれたのであった。

 教祖はこの巡教のなかで、多くの名園や古刹のほか、五つの美術館をたずねている。すなわち、京都市内の中国古代・青銅器を中心とする住友美術館(現・泉屋博古館、実業家・藤井善助の創建した中国美術の有鄰館、京都国立博物館、京都市立美術館と、神戸の白鶴美術館の合計五か所がそれである。

 とりわけ、自鶴美術館についての感想を、後に教祖は、

 「よくもこのような逸品のみをこれだけ蒐め得たものと、最近九十歳で故人となられた当家の主人嘉納氏の高い見識とその功績には自ずから頭の下がる思いがした。(中略)今度の旅行では之が第一の収穫と思った事である。」

 と書いたが、この年の春秋、二八年(一九五三年)春と、都合三度もこの美術館をたずねている。