解脱

 よく、昔から解脱という事をきくが、この言葉は簡単に善し悪しを決める事は出来ない。世間普通の解釈による解脱とは、迷いを去り悟りをひらくとか、執着をとるとか、諦めをよくするとかいう意味であって、これは無論仏教から出たのであるが、しかし何となく逃避的、隠遁的<いんとんてき>響きがあり、これは東洋人特有の思想であろう。

 ところで、実際から言うと、余り悟りがひらけ過ぎると、活動力が鈍るのが通例である。もちろん競争意欲などはなくなり、民族にしても、インドのごとく衰亡する事になる。故に人間は迷う事によって生きる力が出るのである。と言って迷いすぎるのもこれ又危険がある。又諦める事も活動力が鈍るきらいがある。と言って余り諦めないと男女関係などは悲劇を生む事にもなる。だからあんまり解脱してしまうのも面白くない。遂には世の中が馬鹿馬鹿しくなり、孤独的になったり、生ける屍<しかばね>となったりしてしまう。

 以上の諸々を考えてみると、何でも行き過ぎがいけない。つまりほどを知る事である。全く世の中は難かしくもあり、面白くもあり、苦しくもあり、楽しくもあるというのが実相である。結局苦楽一如<くらくいちにょ>の文字通りが人間のあるがままの姿である。しかしこれだけの話では結論がつかないから、私は結論をつけてみよう。

 曰く、人間は諦めるべき時には諦め、諦めない方がいい事は諦めないようにする。迷う場合は無理に決めようとするからで、決断がつかない内は時期が来ないのだから、時期を待てばいいのである。要は時所位<じしょい>に応じ、事情によって最善の方法を見出す事である。しかしそうするには叡智<えいち>が要る。叡智とは正しい判断力を生む智慧であって、それは魂に曇りがないほどよく出る。故に魂の曇りをなくする事が根本で、それがすなわち誠である。誠とは信仰から生まれるものであって、この理を知って実行が出来れば、大悟徹底<だいごてつてい>した人と言うべきである。

「天国の福音書」 昭和29年08月25日

天国の福音書