およそ世の中の人を見る時、誰しも持っている性格に我と執着心があるが、これは兄弟のようなものである。あらゆる紛糾せる問題を観察する場合、容易に解決しないのは、この我と執着に困<よ>らぬものはほとんどない事を発見する。例えば政治家が地位に執着する為、最も好い時期に桂冠<けいかん>すべきところを、時を過ごして野倒死<のたれじに>をするような事があるが、これも我と執着の為である。又実業家等が金銭に執着し利益に執着する為、反って取引先の嫌忌を買い、取引の円滑を欠き、一時は利益のようでも長い間には不利益となる事が往々ある。又男女関係に於ても、執着する方が嫌われるものであり、問題を起すのも、我執<がしゅう>が強過ぎるからの事はよくある例である。その他我の為に入を苦しめ、自己も苦しむ事や、争いの原因等、誰しも既往<きおう>を顧みれば頷く<うなずく>はずである。
以上の意味において、信仰の主要目的は我と執着心を取る事である。私はこの事を知ってから、出来るだけ我執を捨てるべく心掛けており、その結果として、第一自分の心の苦しみが緩和され、何事も結果が良い。ある教えに「取越<とりこし>苦労と過越<すぎこし>苦労をするな」という事があるが、良い言葉である。
そうして霊界における修行の最大目標は執着を取る事で、執着の取れるに従い地位が向上する事になっている。それについてこういう事がある。霊界においては、夫婦同棲する事は普通はほとんどないのである。それは夫と妻との霊的地位が違っているからで、夫婦同棲は天国か極楽人とならなければ許されない。しかしながらある程度修行の出来た者は許されるが、それも一時の間である。その場合、その界の監督神に願って許されるのであるが、許されて夫婦相逢<あいあ>うや、懐しさの余り相擁<あいよう>するような事は決して許されない。聊<いささ>かの邪念を起すや、身体が硬直し、自由にならなくなる。その位執着がいけないのである。故に霊界の修行によって全く執着心が除去されるに従って地位は向上し、向上されるに従って夫婦の邂逅<かいこう>も容易になるので、現界といかに違うかが想像されるであろう。そうしてさきに述べたごとく、執着の権化は蛇霊<だれい>となるのであるから恐るべきである。人霊が蛇霊となる際は、足部から漸次上方へ向って、相当の年月を経て蛇霊化するもので、私は以前首が人間で身体が蛇という患者を取扱った事があるが、これは半蛇霊<はんだれい>となったものである。
従って信仰を勧める上においても、執念深く説得する事は、熱心のようではあるが結果はよくない。これは信仰の押売となり、神仏を冒涜<ぼうとく>する事となるからである。すべて信仰を勧める場合、ちょっと話して相手が乗気になるようなれば話を続けるもよいが、先方にその気のない場合は、話を続けるのを差控え、機の到るを待つべきである。