『栄光』本紙再刊に就て

 本紙は、去る六月三日発行の六十五号までで休刊の止むなきに至ったのは御承知の通りである、それと同時に五月八日本紙編集主任井上茂登吉氏は、脱税問題の容疑で静岡県検察庁へ収容され、次で同月二十九日私も同様の運命に遭ったのである、しかしながら私も井上も法に触れるような事は全然なく、全く当局の調査不充分の為であった事はもちろんで、いづれは我々の公明なる真相の判る時の来るのは言うまでもない、昔から宗教に法難はつきものとは言いながら、時々こういう事があるのは、我々が不徳の致すところでもあろうが、又我々の心魂を磨かせ給う神の深き恩恵に外ならないとも信ずるのである、由来、使命の大きい者程苦難も大きいと言われているにみても、又何をか言わんやである。

 私は二十二日間収容の上六月十九日出所したのであるが、それから一週間目に朝鮮問題が勃発したのである、今は朝鮮という一区域に限られてはいるが、どちらも米ソの二大勢力の冷たい戦争が熱の戦争になった前奏曲といえよう、これも無論世界的大浄化の最初の表われであって、最後の審判の予告篇ともいえよう、その様な状勢を見るにつけても、我等の救世的活動舞台は刻一刻と近寄りつつある事を意識せずにはおれないのである。

 今日の新聞紙に、かのインボデン少佐の事が載っているが、これは非常に面白い観方と思う、少佐曰く「いかなる国家といえども善か悪かのどちらかであって、中立国というものはあり得ない、従ってこの際どちらか決めるべきだ」との言であるが、まことに痛快極まる言である、しかし私はひとり国家のみではなく、社会全般に渉って何事にもいえると思う、もちろん宗教といえどもそれに漏れる筈はない、ただ宗教の 異うところは、善と想って行っている事が、往々結果において悪になる場合もある。この点宗教人たる者大いに戒心すべき点であろう、又法においてもそうである、ちょうど私が今回の容疑で取調べを受けた際、私は思った。善を作る為の法律も行過ぎると、反って悪になってしまう事実である。

 又本紙も、従来の『救世』を『栄光』と改題し、益々精進、神の御目的たる救世済民の実を挙ぐべく、邁進の決意を固めたのである。

 ここで申したい事は、大抵の信徒諸君は最早御存知であろうが、今回の事件を機とし、本教全般に亘り、機構を改革した事である、まず私は今まで救世教教主としての地位を退き、今後は布教にのみ専念する事となったのである、これも御神意に因る事はもちろんで、人間の考えでは到底判り得ない事は、いつも時の進むに従って深き御経綸からであった事を悟るので、これは常に経験するところである。
(自観)

「栄光66号」 昭和25年08月23日

S25栄光