(09) 救世の道

内外の嵐

 昭和四年(一九二九年)一〇月、ニューヨーク・ウォール街で株の大暴落が起こった。これが口火となって勃発したパニック(金融恐慌)は、数年にわたって、世界中の国々を巻き込み、史上最大の大恐慌となったのである。アメリカでは工場 …

新宗教弾圧

 教祖が霊界研究と浄霊の確立という独自の道を歩み続けていた昭和初期は、新宗教に対する監視、統制がますます強められた時代である。  わが国の神道は明治一五年(一八八二年)以来、神社神道と教派神道に分かれ、教派神道としては、 …

応神堂開設

 昭和九年(一九三四年)五月一日、教祖はそれまで住居にしていた大森の松風荘に妻・よ志と六人の子供を残し、麹町区平河町一丁目二番地四(現在の千代田区平河町一丁目四番地)に家を借り、応神堂と名付けて救世の活動を始めた。応神堂 …

千手観音像

 昭和九年(一九三四年)九月一五日、教祖は千手観音の画像を描くようにとの神示を受けた。さっそく構想を練り、構図の下絵作りに取りかかった。そしてこの観音画像は、いずれ新教団の神体とすべきものであると考えて、幅五尺(一・五メ …

善言讃詞

 昭和九年(一九三四年)一二月四日、立教への準備が進められるさなか、岡庭真次郎のもとへ教祖から、    「『観音経』を持って応神堂へ来るように。」 という内容の電話がはいった。岡庭はさっそく、『観音経』(法華経二八品〈ほ …

規約作成

 昭和九年(一九三四年)も押し詰まるにつれて、「大日本観音会」発会の機運はしだいに高まってきた。一一月二五日、大森の松風荘で秋季大祭が開かれたが、その時教祖は、  「昭和一〇年(一九三五年)一月一日を期し、大日本観音会と …

仮発会式

 昭和九年(一九三四年)一二月二三日、この日は皇太子・継宮明仁親王の満一歳の誕生日というめでたい日であるが、また、教祖五二回目の誕生日であり、さらに、「大日本観音会」の仮発会式が応神堂において行なわれた記念の日でもある。 …

草創期の先達

 昭和一〇年(一九三五年)元旦の、「大日本観音会」の発会は、教団の原点とされている大きな節である。ここにいたるまでの昭和の最初の九年は、神業の草創期であり、後の教団の基礎が固められた大切な時であった。このころは、もちろん …