映画の思い出
教祖は若いころから大変な映画好きであった。何しろ、明治三三年(一九〇〇年)、わが国に映画がはいったその直後から見始めているのであるから、もっとも古いファンの一人といってよかろう。そして以来五十余年間、一時期を除いて終生 …
赤い靴
教祖はとりわけ芸術家を大切にした・。そして、芸術家や芸能人が職業柄とはいえ、民衆を楽しませようとしているので有難い。とくに優れた芸術家には頭の下がる思いがするので、できるだけ会いたい、と幾たびか語っている。 毎日、そ …
俳優
教祖は若い時から、映画だけではなく、いろいろな興行物を幅広く楽しんだ。後年さまざまな分野の名人について、その思い出を書き記している。 歌舞伎俳優の中で、教祖が最大級の賛辞を贈ったのは九代目・市川団十郎であるが、その芸 …
浪曲
教祖が非常に好んだものに、浪曲(浪花節)がある。とくに明治末の浪花亭愛造を好み、その声はとても人間の喉から出るとは思われない絶妙なものであったと書いている。若いころ、自宅の風呂にはいってみずから唸り、家族の笑いを誘った …
名人の思い出
時代は前後するが、教祖はまた若い.ころから音曲(日本の伝統芸能の中におけるさまぎまな音楽)を好み、義太夫、常磐津、清元、新内、筑前琵琶、長唄などを楽しんだ。 義太夫の名人として教祖があげているのは、明治、大正にわたっ …
アルプス紀行
大正の未ごろ、教祖はしきりに各地の山に登った。関東近辺のおもな山にはたいてい登っている。これほどまでに教祖を山へいざなったものは、なんであったのだろうか。 いにしえから、山はその美しい容姿ゆえに、あるいは、人を容易に …
奥日光紀行
教祖はまた、槍ヶ岳登山と同じころの大正一二年(一九二三年)八月なかば、奥日光から奥会津へはいり、ふたたび塩原へ折り返す山旅をしている。これは当初、奥日光の湯元から川俣温泉を越えて、湯西川へ抜ける予定であったのが、途中、 …
和服と洋服
教祖はふだん、兵児帯を無造作にくるくると巻き、着流しのままで人に会ったりした。そこで教祖は服装に無頓着であると早合点する者もあった。しかし、事実は、まったく反対で、身だしなみには大変鋭敏な感覚をもっていた。このことは教 …
食事のさまざま
食事に好き嫌いの無かった教祖は、和食、洋食、中華料理など、なんでも食していたが、味に関しては、衣頬と同様に、これまた非常に鋭敏であった。 和食で好んだものは、まず天ぷらで、とくに海老、鯔〈ぼら〉、穴子、それから野菜で …
江戸っ子と伊勢屋
何をもって江戸っ子とするか、その条件をめぐつてこれを厳密に定義付けるとなると、いろいろむずかしい。たとえば、江戸っ子は日本橋の本町に生まれ、乳母に大事に育てられた上流の町人である──などという説がある。また日本橋から新 …