当初、まわりの者は總斎の恢復を絶望視していた。それは、眼前の總斎の姿と倒れる前の彼の予言とが、恐ろしいほど一致したからである。總斎はこの日の来るのが判っていて多くの者に“遺言”を伝えていたから、みなが總斎の病状に不安を懐くのは当然であった。さらに總斎の病状に不安を投げかける幾つかの理由があった。
当時、宝山荘にしばしば總斎を訪ねて来ていた人の中に、たいへんに強い霊感を持つ人がいた。この人は總斎の妻の遠縁に当たり、表具屋を営み、書画骨董も商っていた。また実家は大本教の有力信者で、幼時には聖師・出口王仁三郎にかわいがられて育ったという人である。總斎も特別の霊的能力を持つ人であるから、その霊能者が骨董を持ってたずねて来る日をいつも楽しみにしていたのだ。お互いの霊的な能力を十分に認めあってのつき合いであった。
總斎の浄化後、家族はその霊能者に連絡し恢復のお祈りをお願いした。ところが、
「残念ながら今度は助からん。一所懸命お願いしたがこれは無理だ。『三』という字が三つ出て来た。何の意味か、にわかには判らないが気をつけられよ」
と、言われたのである。また、
「宝山荘の池の龍神様をはじめ、三体の龍神が守護に上がっている」
とも説明した。
実は宝山荘の池の龍神様に関しては、「宝生教会」の信徒の中にいた霊感者が、宝山荘の池の龍神様に祈願に行ったのだが、龍神様はすでに熱海に赴かれたというお告げをいただいている。このような経緯もあって、家族の者は總斎の恢復はもうないと思っていた。それが、思いのほか病状が恢復して、看護の者たちも希望を懐き始めた。
その矢先、昭和三十年五月九日、總斎は突然強い浄化に見舞われた。
当日は、倒れて以来かつてないほど体調もよく、家族の者や看護の者もたいへん喜んでいたが、正午を過ぎた頃に突然浄化が起こったのである。總斎の四肢が強く痙攣し始めた。しかし、とりあえず家族や看護の者たちの浄霊によって発作もおさまり、すぐに意識も取り戻した。
その夜、總斎は家族と家にいた全員を枕元に呼び、
「これから十万億土に旅立つ。いろいろと世話になった。もう何も言うことはない。その代わり、これからの長旅に備えておいしいものを十分に食べさせてほしい」
と言った。さっきまであれほど苦しんでいた總斎が、いきなり、
「食べたい」
と言い出したのである。これを聞いていた者たちは、總斎がよく言う冗談の一つなのだろうと思った。しかし、“これだけ話せるなら大丈夫だろう”ということになり、好物である蕎麦を取り寄せ食べさせたところ、なんと二人前もたいらげた。食後にお茶を出すと、今度は、
「さっきも言ったように、十万億土に旅をするのに一番必要なのは水であるから、水を持って来るように」
と言い出した。コップに水を入れて持ってゆくと、
「これぽっちの水では旅ができない。ヤカンで持って来てくれ」
と言う。そこで大きなヤカンいっぱいに水を入れて持っていくと、總斎はおいしそうにゴクゴクと飲み始め、一升近くはあったかと思われる水をほとんど飲み干してしまった。まわりの者はびっくりしたが、これだけおいしそうに水を飲むのだから、一応今夜は大丈夫だろうと家族や看護の者は病室からさがり、階下の部屋で話をしていた。
だが、しばらくして總斎は家族の者を呼び、
「もう思い残すことはない」
と言い出した。何を言い出すのやら、これもまた冗談かと病床に付き添っていた者は思ったのだが、それからはだんだんと発声も思いどおりにならなくなり、汗をかき、熱も出始め、やがて昏睡状態に陥った。
実はこの前日の八日の夜、不思議な出来事があった。「宝生教会」のある女性信徒が總斎の看病についていたが、この女性は「宝生教会」の有力支部長の姉で指圧もでき、民間療法の心得もある病人の看護には最適の人であった。そのために日頃から總斎の看護をお願いすることが多かった。
この女性が總斎の枕元に座っていた時のことである。彼女はふと、部屋の上の方で何かもやのようなものを感じ、そのまま凝視していると、雲のようなものに乗って明主様が来られるのが見えた。それは、まるで夢を見ているようであったが、やがて気がつくと、明主様が枕頭にこられ總斎の手を取りいっしょに連れて行こうとされるのが見えた。彼女は慌てて總斎に縋りつき、明主様に向かって、
「どうか連れていかないでください」
と必死になってお願いしたところ、明主様のお姿は消えたという。床に横たわった總斎を振り返ってみると、彼は死んだように動かなかったが、しばらくして意識が戻った。
その後に今度の発作が起きたのである。
翌十日の朝、總斎の病態はますます悪化し、意識も戻らず軽いいびきをかくばかりであった。この日の昼、以前から診察を依頼していた医師が訪れ、診たところ心臓の弁が開いたまま戻らないため、あと二、三時間しかもたないであろうと診断した。しかし、見た目には、總斎はこのまま死ぬとは思えぬ状態である。血色もよく、長い病床生活にもかかわらず衰弱もほとんどないように見える。この百キロ近い堂々たる体躯がこのまま死ぬはずはないとまわりの者は疑問に思っていた。
ところが、夜も十時半をまわる頃、總斎の呼吸が止まった。驚いたまわりの者は、急遽二代様にご守護をお願い申しあげた。二代様はかねてから總斎を何かと頼りにされており、總斎の病状恢復を祈念しておられたのだが、連絡を受け、ぜひとも總斎の命を賜わるようにとご祈願くださった。
しかし、この夜、二代様に明主様からのご霊感があり、
「今晩もし死の転機とならなければ、しばらくはもちこたえよう。何れにしても、霊界において、教祖の御用がある故、帰幽はすでに決定事である」
(『明主様と先達の人々』)
とのご神示をいただいたのである。
また、これより先、五月九日の夜、總斎の長女の玉子が、
「父がすこぶる元気で、若々しい姿で、何とも言えぬ宏壮善美な邸宅に、喜びに満ちて住んでいた」
という霊夢を見ている。
前日大浄化が起こったことから總斎危篤との報が伝わり、次々とお見舞いの人びとが駆けつけた。すでに總斎に意識がないと知り、一目だけでも会いたいという人が引きも切らないため、交替で順次病室に入ってもらうことになった。總斎の布団の周囲は見舞いの者でいっぱいになった。
幾重にも總斎の病床を囲む人びとは、泣きながら、あるいは片手で涙をぬぐい、心で『善言讃詞』を唱え、それぞれに浄霊の手をかざしていた。彼らは長い間總斎の顔を見つめたあと、まず一番前の列の人びとが立ち上がり、今度は次の人の輪が前の人びとの位置につく、この繰り返しであった。
見舞いの信徒は増え続ける一方で、二階はすでにいっぱいになり、階段まで溢れて、家族は来客の応対にいとまがなかった。このままではこのあとの見舞客は家に入れなくなる。申し訳ないことであったが、早くに来て頂いた方にはお引き取り願うことになった。
「家に帰り、支度してまたうかがいます」
と言いながら後を振り返り帰る信徒、見舞いに来てそのまま二日も泊まりつづける者……。家人が、「お宅のことは大丈夫ですか」
と聞くと、
「行って来い。お前の一番大切な先生の大事だ。一生悔いを残さぬようにと夫に言われ──。夫は会社を休んで子供を見てますから」
と言う人もあった。
常時百名近い見舞客が家におり、二階に通じる部屋は信徒でいっぱいである。階下の部屋に布団を敷き詰め、疲れた人に休んでもらうようにしていたが、ほとんどが總斎のために寝ずの看護をする。これも總斎がこれまで多くの人びとに愛情を注いだ結果であり、それによって、總斎はこれほどに多くの人びとに愛されていた。そして、これら人びとの夜を徹した浄霊によって、總斎の生命はその夜はもちこたえた。
十二日、二代様は関西方面へご巡教に出発された。せめて十七日にお帰りになるまで總斎の延命を賜るようにと、一同で大神様に祈願をした。
十三日には顎にまで硬直が広がり、果汁さえも喉を通らなくなった。總斎が危険な状態になった場合は病床に付き添っている者が連絡のブザーを鳴らす。家人やまわりの者は、食事の途中でも夜中であっても、この連絡のブザーが鳴ると二階の病室まで駆け上がる。こんなことが一日に幾度も繰り返されるのである。それでも總斎の看護をしたいと集まった信徒たちは必死であった。最初と同じように輪になって浄霊を続け、疲れたそぶりも見せず、不平も言わず、ただただ一所懸命、浄霊を取り次いだのである。
そして、十四日を迎えた。こうして、總斎が大浄化で倒れてから五日を過ぎる頃になると、何とか十七日の二代様のお帰りまでもつのではないかと思えるようになった。
そこでまた医師に来診を頼んだところ、その第一声は、
「まだ生きていたのか」
であった。診察の結果は最初と変わらず、生きているのが不思議だという。しかし心臓の弁も肛門もすでに開いているので、もう時間の問題でありへ死亡診断書を書くために医師が待機をするということになった。まさに危篤である。しかし、總斎はその夜ももちこたえ、昏睡状態のまま朝を迎えたのである。
十五日の朝になって、總斎の病態は悪化し、呼吸が一時絶えた。そのため、近親者一同が總斎に対して別れの挨拶を行なったところ、再び生色を取り戻し、開いていた肛門も締まってきたという。顔色も健康時のように恢復し、呼吸も安定している。しかも昨日は弛緩していた耳たぶの筋肉も締まってきたので、このぶんならあるいは意識も戻るのではないかとかすかな望みが湧いた。驚いた医師は、
「こんな患者は初めてだ。まるでバケモノだ。私の手には負えない」
とだけ言って帰ってしまった。
“バケモノ”でも何でもいい、せめて十七日の二代様ご帰還までは生きていてほしい、というのがみなの願いであった。しかし總斎は、相変わらず喉が鳴っているのと体温があるので生きていることだけは判るが、水も入らず小水も出ない体になっていた。
總斎危篤の報に、全国から弟子たちが参集し始めた。各教会の教会長や幹部、あるいは本部の役員となっている教師たちである。この教師たちが總斎を取り囲む浄霊の輪に加わり、休まず總斎に「おひかり」を送り続けた。そのためか、久しぶりにこの日は血尿と水便を排泄した。
十六日には、呼吸状態もいよいよ逼迫してきた。登坂する蒸気機関車のような激しい呼吸が続くこともあった。さすがの總斎の体も、著しい衰弱の色を見せ始めた。