浄化

 熱海の桃山台で總斎が倒れたという連絡が宝山荘に入ったのは、昭和二十九年九月九日の午後のことである。

 總斎は箱根の大観荘に向かったはずである。しかし、なぜ熱海で倒れたのか。その理由は後になって判った。宝山荘を訪ねたのと同じように、思い出の熱海の家を見ようとまず熱海に立ち寄り、それから箱根に戻るつもりで予定を変更したのである。その時の總斎の胸中はいかなるものであったろうか。

 宝山荘で、近しい弟子には、
「これから箱根、熱海に行って静養するが、どんなことがあっても悔いのないように自分でも用意をするから、みなも心の準備をしておくように」 
 と、言い残している。總斎には、熱海が最後の場所になることがあらかじめ判っていたのかもしれない。

 總斎は続けてその弟子に、
「しばらく浄霊してやらなかったし、これが最後になるかもしれないから」
 と言って浄霊を始めた。これも總斎の遺言といえるだろう。

 總斎が熱海で倒れたと聞いて、“總斎はすべてを悟っていた”ことを家族の者たちもやっと知るのである。また信徒たちも、この一年間にわたる總斎の言動をようやく理解することになる。

 熱海・桃山台の自邸は宝山荘と同じくらい總斎にとって思い出深い。桃山台の家そのものはまだ新しく、昭和二十五年四月の熱海大火のあとで建て直したものである。したがって、總斎がこの新しい家に愛着を懐くというのもおかしいが、それには理由がある。

 この家は明主様自らが先頭に立って直接指図されて建てた家だからである。
 熱海の大火のあとで、明主様は、
「渋井さん。あなたの家は私が設計してやる」
 と、言われた。

 大火で熱海の家を失った總斎は、しばらく小田原にいたが、明主様のお住まいと離れていては御用のために非常に不便なので、熱海に住まいを求めていた。そして桃山台に土地を得て住居を建てることにしたのだった。

 さっそく明主様に家の設計をお願いすべく参上したが、先客に藤枝夫妻(三代教主様夫妻)がおられ、總斎と同じお願いをされていた。ところが明主様は、
「自分の家ぐらい自分で考えなさい」
 と、言われたという。

 總斎は、彼自身のお願いと同じ内容について、眼前で、明主様の娘ご夫妻がご注意を受けているのを見たのである。いかに約束とはいえ、總斎はそれを言い出せずに帰ってきた。

 そういう経過があったのだが、御用のためにはどうしても必要な家である。結局、總斎は自らの好みと予算で桃山台に家を建てることにした。上棟式もすんで、完成という段になって初めて明主様にご奉告に参上したところ、今度は總斎が明主様からきつく叱られた。
「あれほどあなたの家は私が設計してやると言ったのに」
 と、言われたのである。

 明主様はさっそく桃山の家にお出ましになられ、工事を請け負った工務店を呼ばれて直接指図された。ここをこのように直せ、あそこをこのようにと、いちいち明主様自ら仰せになり、結局屋根だけを残して大部分を建て直すことになった。

 總斎の家族の者は桃山台の家の建築現場に行って驚いた。

 完成も間近に迫って、新築祝いをいつにするのかと見に出かけたところ、その新築家屋は屋根だけを残してすべて壊されている。新築中のはずが、反対にほとんどは解体中だったのである。結果、この家の工事費は当初の見積りとは大きく変わり、二軒分もの建築費がかかってしまった。その後、庭の設計もすべて明主様が行なわれたので、全体の経費は膨大なものとなったはずである。このような経緯があった熱海・桃山台の家に、總斎は宝山荘と同じくらいの愛着を感じていたのである。明主様と初めてお会いした家と同様に、明主様に采配を振るっていただいて建てたこの家にも、愛着を持つのは当然であった。

 その家で總斎は倒れた。四度目の脳溢血である。普通、二度も発作があれば、まず助からないのがこの病気で、總斎はこれまでに三回も発作を経験していた。

 しかし、今度ほ四度目の発作に襲われたのである。いつも明主様の浄霊で奇蹟的に恢復し、今日まで生きてこられたのだが、今回はどうも難しい。何しろ總斎自身が、まわりに遺言を伝えているのだ。彼はすべての準備をしてこの時を迎えていたのである。

 とりあえず、箱根の明主様にご守護をお願い申し上げた。明主様も四月の脳溢血での浄化中のお身体であられる。しかし明主様から、
「私が元気になれば、浄霊に行ってすぐに治してあげるから心配しないように」
 という温かいお言葉と、それに添えてさまざまなお見舞いの品が届けられた。明主様からのお見舞いの品は、總斎の浄化中絶えることなく続いた。なかには、明主様への献上品の中から選りすぐって届けられたものもあった。

 總斎が好物ということで、鮎をたくさん届けていただいたりした。總斎が倒れてまだ間もない九月のある日には、当時としてはたいへん珍しいソフトクリームが、總斎の食後のデザートとして小皿に載っていた。

 これはもちろん箱根・神山荘の明主様から届けられたものである。九月の残暑厳しい時季だが、当時は冷凍用の保存容器があるわけでもない。このお届けものは、三十センチ大のボールに一杯届けられたのであるが、神山荘から自動車で飛ばしても一時間以上もかかった。桃山台の渋井邸に着いた頃には、總斎がデザートとして食べる小皿分のソフトクリームが残っただけで、あとは融けて泡になってしまっていた。しかし、たとえ一口ほどの量になったとしても、ソフトクリームを總斎の口にできるだけ早く入れてやりたいという明主様のお気持ちは、決して融けてはいなかったのである。

 明主様は總斎に対して全幅の信頼と期待を寄せておられた。その總斎が倒れたのである。しかも明主様ご自身も浄化中で、すぐに飛んでいって浄霊をすることもできない。さまざまな届けものは、明主様がいかに總斎の体を案じておられたか、そのお気持ちを十分に裏書きしていよう。

 總斎は倒れた翌日、すでに用意していた遺言書を妻に託した。この日のあることを見越して、事後のことはおおよそ用意していたのである。遺産に関しても、そのほとんどの処分をすでに宝山荘にいた期間に終えていたが、残りのものも病床に臥してから順次整理していた。自らの死期を迎えながら、その泰然たる態度には、すでに生と死を超脱した聖者を見る思いがする。

 總斎の浄化は脳溢血で、眼底出血により片目はほとんど見えず、もう一方の目も半分くらいしか見えなかった。ことに視野狭窄がひどかったので、見舞いに来た者や看護の者が總斎の枕頭に座っても、その位置によっては總斎の視野にはまったく入らないことがあった。

 總斎は、もう少し右、もう少し左、などと言いつつ彼らの顔をのぞき見ようとした。当時、總斎は決してぼけていたわけではなく、思考力は人並み以上であったが、話をしたくない者がくると意識的に間違った受け答えをしていた。そのため、教団の一部の人たちの間では“渋井の頭はおかしくなったのではないか”という噂が流れたこともある。

 總斎の病状の恢復経過は、なぜか、きわめて順調であった。看護の者たちは、總斎が自らの死期を口にしたことがまるで嘘のような感じがしていた。今度ばかりは、總斎の予言が当たらないでほしいとみなが思っていたのである。

 その期待通り、倒れた当時不随となった手足も少しずつ動かせるようになり、さらに床の上にも起き上がれるようになったので、やがては歩行できる日も近いと思わせる恢復ぶりを見せた。

 ここまで快復したのは、ひとつには明主様の總斎を思う強いお気持ちによると思われるが、また總斎をとりまくさまざまな人たちの、總斎への強い期待や愛情があったからであろう。

 例えば、長らく明主様のおそばに秘書役として仕えていた井上茂登吉は、「總斎倒れる」の報に接してすぐ熱海まで飛んできた。そしてほぼ毎日、一所懸命に浄霊を取り次いだ。これが總斎が帰幽するまでの間、井上の日課になったのである。

 顧みれば總斎と井上との交友はすでに十七年に及ぶ。總斎が初めて宝山荘を訪ねた昭和十三年一月二十六日、受付をしていた井上に、總斎が住所と名前を告げたのが交友の始まりであった。その時から現在に至るまでの親しいつきあいが続く。病床に横たわる總斎と、總斎に浄霊を取り次ぐ井上との間には、その十七年間に起こったさまざまな出来事についての話が交わされたことであろう。

 井上には、總斎の見舞いと浄霊のほか、帰途、明主様に總斎の病状をご奉告に参上する役目があった。

 明主様は井上からの奉告を心待ちにしていた。そして毎回、井上を通じて明主様から總斎へお言葉があった。ただ、總斎に明主様のお言葉を伝える時は人払いをされており、今となってはその内容をうかがう術は残されていない。

 実は法難後、井上は、第一線を離れており明主様と頻繁にお会いいただける立場にはなかったのだが、總斎の浄化で、また昔のように明主様の許で再び御用をうかがうことができるようになったのである。明主様も井上に何くれとなく気を遣われ、總斎の病状奉告と併せて、井上とさまざまな話ができることを喜んでおられた。井上をはさんで、箱根の明主様と熱海の總斎とが再び強い霊線で結ばれることになる。距離は遠く離れていても、この二人の心はいつも一つに結ばれていたのである。

 總斎が病床にあった間、それまで總斎のもとに足繁く通ってきた人びとのうちに、見舞いにすら来なくなった人も多くあった。それは總斎が見舞客にわざと曖昧な応答をしたため、「渋井はおかしくなった」 

 という風評が流れたためであったかもしれない。しかし、一方、教団で大きな力を持つ總斎を妬む者もいたことも事実であった。教団もここまで大きくなると、明主様とも近く、教団の最大実力者でもあった總斎を煙たく思う人たちがいても不思議ではない。また法難がいわれなき罪であったとしても、すでに刑が確定してしまった總斎に責任の一切を負わせ、また、実情を知らない多くの者がとかく總斎を非難、軽視する言動をしたとしても、それは成り行きであったかもしれない。

 しかし、總斎は自ら望んで教団のトップになろうと考えたことは一度もなかった。また、人を蹴落としても人の上に立とうとするような人間でもない。總斎が明主様の右腕となって教団の中枢にその座を占めたのは、それはただ明主様への御用を真摯に務めた結果であり、また總斎を通しての明主様のみ教え、その卓抜した力を知った多くの信徒が、心から總斎を慕っていた結果なのである。

 總斎が明主様に特別近いといっても、明主様を独り占めにしていたわけではない。總斎は自分が導いた者たちを明主様に引き合わせ、明主様の御用を務め得る人間として多数の専従者を育てたのである。もし總斎が明主様との面談の機会を独占的に握り、信者と明主様の面会に高いハードルを設けていたとしたら、これほどの人望をかち得るはずはない。總斎を通して明主様の神としての人智を超えたお力を教えられた人びとは、明主様の教えと相まって、總斎の徳の高さにも魅かれていたのである。

 しかし、それにもかかわらず、一部の心ない人びとは總斎を公然と非難し始めるようになった。桃山台の家の前で總斎を悪しざまに言いながら通る御仁もいたのである。

 總斎は、そのような通行人の悪口を病床で聞くと、
落ちぶれて袖に涙のかかるとき 人のこころの奥ぞしらるる
 と、古謡を口ずさみ、
「もっと温かい教団にしたかった」
 と言ったという。

 しかし、浄化中の明主様と總斎の関係には、昔を凌ぐ温かなつながりが復活した。直接会うこともできない状態にありながら、二つの魂の交流は、最期までやむことがなかったのである。

 熱海の大火以前、明主様のお住まいは清水町、總斎は旭町と町名は違っていたが、歩いて一、二分の距離にあった。それが今や箱根と熱海とに隔てられている。にもかかわらず、浄化中の明主様と總斎の間は清水町と旭町の距離よりもさらに近く感じられた。その感覚はもはや神秘的といってよいものであった。

 しかしながら、明主様は昭和三十年の二月十日、熱海市水口町の碧雲荘で午後三時三十三分、ご昇天された。そして總斎もその三ヵ月後、明主様を追うことになるのである。