遺言のこと

 かつて「日本観音教団」「日本五六七教」の管長を務め、またこの二教団の合併で「世界救世教」と改組されたのちは、教主になられた明主様を支える教主補の一人として、たえず教団の中枢にあって明主様とともに教団を指導・運営する立場にあった總斎は、法難を機にすべての職を辞し、浄化の身を療養していた。そして二年後、浄化が治まるや、自らが統括していた教団の一散会の教会長として再出発したのである。

 この時、總斎は六十七歳。何もいまさら教会長でもないだろうし、六十七という齢を考えれば、当然、引退という選択もあったに違いない。しかし、總斎は「宝生教会」で一布教師として布教活動の最前線に出る道を選んだのである。この明主様への“最後の御用”を始めたのは、昭和二十七年七月のことであった。

 この選択は、總斎にとって自分の信ずる“神への御用”を貫徹すること以外の何ものでもなかった。

 總斎は明主様に一生を捧げることのみを考えていた。昭和十二年十一月、明主様と初めてお会いした時のことを振り返ってみればよく判る。明主様の前では、常に総斎は前掛けをする。いくつになっても私は前掛けをした小僧ですという気持ちを總斎は忘れていなかったのである。

 この時、明主様の御用としてもっとも大切なことは、“法難”以降の教勢の衰えを建て直すことであった。この頃の新聞・雑誌・ラジオの影響力はすでに強大であった。總斎はいわれのないマスコミの中傷から、教団を救うことに心血を注ぐことになる。

 マスコミによって堕された教団イメージを恢復し、教勢の建て直しをするために總斎は、今何よりも地道な布教活動が第一であると考えた。そこで、健康が一時的に恢復したのを機に、一教会の教会長としての御用をするために布教の最前線に出たのである。

 その活動のさなか、昭和二十九年の四月十九日、月曜日の午後二時頃、蒐集美術品を整理されていた明主様が、脳溢血の症状を起こして倒れられた。五日間も病床に臥されたのち、ようやく床の上に起き上がれるようになられたというから、決して容態は軽いものではなかったであろう。

 明主様が倒れられてから、總斎は時々信徒の前で自分の死期を口にするようになった。これは明主様のご昇天を意識した上のことであったのだろうか。それまでは、いつもと同じように元気に多くの信徒に浄霊をしていたのだが、ある時からふと、
「あと一年くらいか」
 と、自分に残きれている時間のことを何気なく漏らすようになった。あとから考えれば、実に正確に自分の死期を悟っていたとしか考えようがないのだが、この時はまだまわりの者もただ聞き流していた。

 しかし日を追ってこの時間は少しずつ短くなっていった。總斎が漏らす言葉も、
「あと一年くらいか」から、
「あと半年くらいか」
 と変わってきた。

 残された時間が減っていく──それは明主様の現世におられる時間と、自分の明主様に捧げられる時間とを天秤にかけたようなもの言いであったという。總斎は自分に残された時間を改めて確認すると同時に、まわりの者にもこの事実をあらかじめ伝えておきたかったのだと思われる。

 總斎は自分に残きれた時間がわずかしかないと諒解していても、少しも慌てることはなかった。しかし、まわりの者たちに伝えておくべき事は伝えなければならない。死期が半年後に迫ったと言い始めた頃から、近しい専従者や熱心な信徒に対して、おのおのの将来への指針、信仰者として相応しい生き方、今後特に改めなければいけない事などを、時には厳しく、時には優しく指導するようになった。

 總斎のまわりの者にとってみれば、その言動は少々奇異に思えた。何しろ總斎が自らの死期を悟っているなどということは信徒にとっては考えも及ばなかったことなのだから。
「近頃の先生はいつもの先生と少し違う。自分はあと何ヵ月くらいしか生きられないから、あなたはこうしなければいけない、というようなことをおっしゃるのよ」
「そう、まるですぐ死ぬような感じで厳しく注意されるのよ」
「『お互い心残りのないようにしておきたい』なんてことも言われたわ」

 このような会話が宝山荘の奉仕者や浄霊をいただく信徒の間で交わされるようになってきた。

 あとから思えばそれがまさに總斎の遺言となるのだが、この時には誰もそれと気づくものはいない。何しろ總斎は普段と何一つ変わることなく元気なのである。なぜ總斎はこんなことを言い出すのか、まわりの者がいぶかしく感じるのが当然であった。

 この頃、總斎から遺言をはっきり聞かされた者に、總斎の長男の嘉丸がいる。

 嘉丸はある日の夕食後、父・總斎に呼ばれた。書斎に入ると、書類は整然と片付けられて、總斎は机の前に座っていた。總斎は嘉丸にちらっと目をやり、自分の前に座るように言った。その目には、逞しく成長した息子の姿を喜ぶ親としての優しさが溢れていた。

 このあと、父は思いもよらぬ厳しい話を、しかし優しい口吻<こうふん>で告げたのである。

 總斎は、静かな口調で嘉丸の近況を訊ねた。そして、自分の人生を振り返るかのように、明主様との出会いから現在の明主様の浄化の様子、また今日までの明主様への御用や御神業について語り聞かせた。明主様とのかかわりの中で自分の生き方を改めて息子に語るということ自体、普段の總斎の言動からは考えられないことであった。そして、ついに、
「私の生命はあと数日となった。そこでお前に遺言を伝えておきたい」
 と切り出した。
 嘉丸は“冗談ではない、こんなに元気なのに”と思ったが、
「はい」
 と答え、かしこまって父の話を聞いた。
「お前はもう一人前に育った。これからは何ものにも頼らず生きてゆけ。もし御神業をしたいなら一から勉強していきなさい。嫌なら無理することもないだろう。好きな道を選んでいけばよろしい。自分の人生だから好きなように生きたらよいだろう。だが、親としてはお前が立派な人になってほしいと思っている」 

 嘉丸はいったい何のことを言っているのか、初めはよく判らなかった。話の内容ははっきりと判るのだが、こんな話を父から聞かされていること自体が信じられないのである。總斎は続けて、「……私の財産は御神業のために神様からお預かりしたものである。お前はまだ何も御神業をしていない。また、これから御神業を始めたとしても、これは親の跡を継いでできるものでもない。だからすべてを神様にお返しする。私以上に御神業に励めば、お前もあるいは神様からいろいろなものをお預かりすることができるかもしれない。啓子はいろいろと苦労をかけたので、啓子の生活の立つように考えているし、娘たちはそれぞれ嫁いでいるからもう心配はない。お前は一人前の男だから、お前には何も残すものはないが、もし私に徳があるとすれば、それがお前に譲れる唯一の遺産である」

 總斎はそれだけを言うと、すでに整理されていた机上の書類を嘉丸に手渡した。それは總斎のすべての財産目録であった。このすべての財産を總斎の死後、教団に返上するというのである。とはいえ、總斎が入信以前に形成した財産も多くあるはずだが、そのような渋井家としての個人財産までも返上するという。これでは返上ではなく献上ではないかと考えながらも、嘉丸は身じろぎもせず父・總斎の話を聞いていた。

 父の話は現実のこととは思えなかった。もし、それが本物であるとすれば、では、この事態をどう整理すればいいのだろうか。いったい、父がここまで尽くした「世界救世教」は、本当に正しい信仰であったのだろうか。どこかで間違っていたのではなかったか。そんな思いがふと嘉丸の心をよぎった。嘉丸は混乱する中で、そのことを父に聞いてみたくなった。
「お父さん。『メシヤ教』は本当に正しい宗教でしょうか。それとも……」
 予想もしない嘉丸の言葉であったが、總斎は言下に、
「もし、お前の疑問が正当ならば、私は喜んで地獄に堕ちよう。私は多くの人を明主様のもとに導いてきた。この教えが誤った道ならば、当然、私は地獄に墜ちるだろう。その地獄で苦しむ私の姿を多くの人に伝えてくれればよい」

 總斎はそれだけを話すと、
「お前に言うべきことはこれだけだ。疲れたから……」
 と言って横になった。

 そこまで覚悟して信仰を貫いた父の言葉に感動を覚えつつも、嘉丸は狐につままれたような気持ちで父の書斎を出て母・啓子のもとに行き、今聞かされた總斎の遺言を母に伝えた。母は、
「私は何も聞いていませんよ。近頃のお父さん、少し変よね」
 とだけ答えた。この時になってもまだ、誰一人として總斎の言動の意味を理解できなかったのである。

 總斎が「宝生教会」で身近な信徒に話したさまざまな“遺言”も、家族に伝わってはいたが、彼らにはそのような話は単なる夢か幻のように思われていた。嘉丸も總斎から遺言を言い渡されて、半分夢を見ているような気がした。總斎の命があと数日となっているというのは、単なる話としか思えなかった。とはいえ、もしも、という危惧がなかったわけではない。この数日間、總斎のまわりでは不思議なことが多く起こっていたからである。

 總斎ほどになれば、自分の死期を悟ることなど実に簡単なことなのかもしれない。總斎のさまざまな力を知っている者にとってみれば、一抹の不安を懐くのも当然であろう。

 總斎は、遺言を嘉丸に言い渡した翌日の朝、
「二度と宝山荘を見ることはないだろう」
 と言って玉川まで散歩した。

 そして、その夜が明主様と初めて出会った宝山荘、何度も明主様と徹夜で語り明かした思い出深い宝山荘の富士見亭で過ごした最後の夜となった。その翌日は箱根の大観荘へ向かう予定であった。