愛の浄霊

 すでに記した通り、警察の不当な弾圧により起こった第二次・玉川事件を契機として教祖が第一線を退いたのは、昭和一五年(一九四〇年)一二月のことであった。それから五年後の昭和二〇年(一九四五年)の終戦以来戦、戦時中のような官憲の圧迫はなくなった。自由な宗教活動が息を吹き返し、教線はしだいに伸展するとともに、大規模な聖地の造営も開始されるなどして、神業は新しい段階にはいったのである。そのため、教祖の日常はますます多忙になった。したがって求めてくる一般の人々に対し、教祖が直接個々に浄霊をするということは非常に少なくなった。このような傾向は、すでに昭和一五年(一九四〇年)以降から始まっていた。しかし、どんなに忙しくても、一部の弟子や側近者に対しての浄霊は続けたのである。

 昭和二一、二年(一九四六、七年)ごろ、教祖直々の浄霊によって、厳しい浄化を救われた専従者はかなりの人数に達している。

 教祖は日ごろから、

 「浄霊を頼まれると、私はいったん寝てからでも、また起きてしてあげる。」

とよく口にしていた。浄化のために苦しみのひどい時に願い出て浄霊を受けるとたちまち楽になるというのは日常茶飯事であった。
 「お願いしては、お忙しい明主様にご迷惑をおかけするから。」
と、浄化の苦しみを我慢したりしていると、
 「遠慮するのは罪だ。」
と、かえって叱られたくらいである。

 新潟で布教していた小川栄太郎も教祖の浄霊によって、危うい命を救われた一人である。
その浄化にあたって、教祖は小川が後に「光陽教会」の会長として大きな神業を担う人物となるであろうことを、いち早く見通していた節がある。そこで、指導者にふさわしい不動の信念を育てようと、大変厳しい指導をしたのであった。それは、弟子をかけがえのない人材に育てようとする親心に通ずる愛情から発せられたものであった。だから厳しさの一方で、浄化のために苦しむ病人をいたわり、細やかな思いやりでその容態を気づかってもいるのである。このようにして、苦しみの浄化は浄霊を契機として、文字通り、心身を浄化され、魂の向上へとつながるのである。

 小川は、昭和二一年(一九四六年)五月、強羅へ行き、神山荘での面会が済んでから昼食をとっていた。すると急に熱が出てきて、しだいに息苦しくなってきた。夕方になってもいっこうに楽になる様子がなく、かえって苦しみが増すばかりなので、その日は鳥の家に泊めてもらうこととなった。その夜は横にもなれないほどの苦しみようで、翌日になっても帰れる状態ではなく、小水も出なくなり、時間の経過とともに、熟は高く、息が荒くなって、容態は悪化していった。その様子を側近の奉仕者が教祖に報告すると、
 「私が浄霊してあげるから連れてきなさい。」
という返事であった。病状を知っている奉仕者が、
 「あの人は、とても歩けそうにありません。」
と言うと、教祖は、
 「歩けなくて、来られないようだったら帰しなさい。本当に来る気があったら、這ってでも来られるはずだ。」
と言う。本当に救われたければ命がけで来い、そうでなければ救われることはないのだ、という厳しい指示であった。小川は、教祖がそのように言うのであれば行けるはずだ、と気力をふりしぼり、石のように重い身体を引きずって、わずか二、三〇メートルのところを、長い時間かかって教祖のもとにたどりついた。

 教祖から長い時間の浄霊を受けて、小川は非常に楽になった。しかし二、三時間たつと、また苦しくなってくる。教祖が、
 「苦しい時には、いらっしゃい。」
と言うので、苦しさに耐えられなくなると、浄霊を願い出て出かけて行った。しかしその日四度目に苦しくなった時には、あいにく夜中の二時であった。小川は時間を聞いてためらったが、死ぬほどに苦しい。そこで、浄霊が受けられるかどうか聞いてもらったのである。すると、
 「まだ起きて仕事をしているから、すぐに来なさい。」
という教祖の返事であった。浄霊が終わったのは、すでに夜中の三時を過ぎ、少し休んで帰るころには、箱根の山々の夜のとばりは、はや白々と明け初めていた。

 四、五日目に側近の奉仕者が心配して、小川の病が治るのかどうか尋ねた。すると教祖は、
 「ああ、小川さんは死なせられないんだよ。小川さんが死ぬと私が困るんだ。」
と言った。これは、小川にもしものことがあれば神業に支障をきたすという意味の言葉である。

 このようにして小川は一五日間、横になってろくに眠ることもできず、食事もなかなか喉を通らない状態で過ごした。しかし、このような重体であったにもかかわらず、教祖の浄霊によって、ようやく命をつなぎ止めていたのであった。顔がむくむのはもちちんのこと、睾丸もしだいにふくれて大きくなり、歩けない。そこで、風呂敷に包んで、それをほかの人に持ってもらい、ようやく歩いて行くというような日が続いた。かねてから小川が世話していた布教師たちが心配して駆けつけ、容態を見て仰天した。そして、教祖に、
 「大浄化、世の大峠と聞いておりますが、大峠がくると小川先生のようになるんでしょうか。」
と尋ねた。すると教祖から、

 「小川さんはね、それに比べれば、まだ軽いんですよ。」
という答えが返ってきたので、一同は二度びっくりしたのである。

 *地上に天国がくる前に、それまでの罪穢れが清算される苦難の時をこのように呼ぶ。また終末の世ともいう

 小川がついに自分の足で歩けなくなると、今度は教祖の方から、日に何度も鳥の家へ行って浄霊をした。また、
 「甘い物が食べたいだろう。」
と言って、当時容易に手にはいりにくかった大きな饅頭を与えたり、自分の食事の中から一品、二品と選んで、
 「これを小川さんにやりなさい。」
と言って届けさせたのである。

 こうして、さしもの重い浄化も、一五日目を境に、血のような小水が出ることによって、日一日と快方に向かい始めた。後になって教祖は、

 「小川さんは本当は命のない病気だったんだ。本当は駄目なんだ。しかしあの男は神様のご用をしていたんだから神様の方で殺せないんだ。」

と語ったのである。

 そのころ、教祖のもとに「ご守護願い」の電報が、毎日各地から何通も届けられていた。「ご守護願い」とは、住所、氏名、年齢、性別、入信年月日、教会名などのほか、浄化の状態を記して、一時も早く浄化が楽になるようにと、神の守護を願ったものである。側近がその内谷を取り次ぐと、教祖は自分自身で確認するかのように深くうなずくのが常であった。それは報告を聞きながら、浄化に苦しむ者に対してすでに霊光を送っている姿であった。そうこうするうちに、今度は「ご守護、おん礼申し上げます」という電報が、願い出た先方から送られてくるのである。

 このようにたとえどんなに遠方に在る者であっても、教祖に取り次ぎを願い、教祖の耳に達することによってその者の上に神の大きな守護が受けられたのである。「ご守護職い」を追いかけるように送られてくる感謝の電報は、まさしくその証しにほかならない。

 昭和二三、四年(一九四八、九年)のころである。渡辺勝市の妻・玉子が子癇<*>になった。産後、発作が起き、危険な状態になったので、教祖にあてて、「ご守護願い」の電報を打った。すると間もなく病状が持ち直したので、すぐに感謝の電報を打った。それで一段落したと思っていると、一週間後になってふたたび容態が悪化した。渡辺はその様子があまりにひどいので、いよいよ妻の死を覚悟した。しかし、それでも、万が一、肋かるならばと、再度「ご守護願い」の電報を打った。渡辺は枕元に坐ってずっと脈をみていたが、その脈もすでに途絶えて一○分以上になる。一心に祝詞をあげていると、そのまわりでは、枕元に集まった六人の子供たちも、
 「母ちゃん、もう死んじゃった。」
と泣きじゃくるばかりであった。渡辺は、
 「泣きなさんな、母ちゃんはいい所へ行くんだから。」
と言ったが、自身、胸は悲しみに重く塞がれていた。

 *妊娠、出産、産後などに全身痙攣を起こし、失神する病気。妊娠中毒症の一つで、死亡率が高い

 するとその時である。握っていた妻の手に、脈がよみがえり、トントンと規則正しく打ち始めたのである。そして、見ているうちに、顔に生気が戻って息を吹き返してきた。妻は、やがて目を開くと、うつろな日差しで、
 「ここはどこですか。」
と聞く。
 「うちだよ。」
と言うと、なお腑に落ちない様子で、
 「どこのうち?」
と尋ねる。
 「あんたのうちじゃないか。」
と言い聞かせても、それが耳にはいったのかはいらないのか、
「なぜ私を呼んだの? きれいな野原を、御殿の見える方へ歩いていて楽しかったのに、みんなが呼ぶので、後ろを振り返ってしまって惜しいことをした。」
と夢うつつに語るのであった。

 玉子はそれから順調に回復したので、一か月ほど後、渡辺は妻を伴って教祖に礼を言いに行った。その時、教祖は玉子に浄霊をしながら、

 「うん、これはもう大丈夫だ。私もあんたから二度目の電報を受け取った時は驚いた。これは容易でないと思った。神様に特別にご守護をお願いした。」

と言った。渡辺はこの言葉を聞いて、ただ、泣けて泣けてしかたなく、感謝の思いが胸に迫って何も言うことができなかったのであった。

 こうした奇蹟を生む「ご守護願い」の電報は、大きな救いの神業につながるものであったから、とくに心を込めて取り扱うことになっていた。ところがある時、配達された電報を教祖に取り次ぐのが遅れてしまったことがあった。電報を受けた者に急の用事ができ、ほかの人に頼んだために起きた手違いからであった。これを知った教祖はすぐさま最初に電報を受けた奉仕者を呼んで、

 「おまえが受けた電報を、なぜほかの人に頼んだのか? 私の所へ電報でご守護を頼んでくるというのは、よくよくのことがあるからではないか。一時も早く苦しみを救ってもらいたいからではないか。そういう、相手の心がわからないのは誠心がないからだ。悩み苦しむ人の、心の痛みのわかる人間になれ、それが誠心なんだ。」

と、こんこんと言い聞かせたのであった。

 教祖は平常、「知ろうと思えば、人の心はすぐにわかる。」とよく言った。また「人を喜ばせるのが私の道楽である。」とも言った。したがって、救いを求める人々の必死にすがる思いを、痛いほどに身に感じとり、すぐに救いの手を差し伸べずにはいられなかったのである。

 教祖の愛の深さを物語るものにこんな話がある。
 碧雲荘を住まいとして清水町仮本部で面会が行なわれていた昭和二四年(一九四九年)ごろの話である。ある日、教祖の次女の三弥子が急に具合が悪くなり、奉仕の者がその旨を清水町へ電話した。すると、教祖から「すぐ帰るから。」という返事があったので、碧雲荘では、角田美代子という奉仕者が玄関の所まで出て教祖を待っていた。するとそこへ、教祖が着物の裾をはしょり、息せききって小走りに帰って来た。そして玄関の美代子を見るなり、
 「ああ、あんた、もう良くなったのか。よかったね。」
と言った。というのは、その奉仕者の名が娘の三弥子によく似ているので、教祖は聞き違え、
具合の悪いのは、てっきり玄関に出迎えていたその美代子であると思い込んだのである。そこで
 「いい、え、私ではありません。三弥子様でございます」
と報告すると、教祖は、
 「ああ、三弥子ちゃんかぃ」
と言い、ホッとしながら奥の間へはいって行った。
奉仕者の美代子は、教祖が娘のために帰ってきたとばかり思っていたのに、じつは一奉仕者である自分を心配してのことであったということ、しかも清水町から碧雲荘までの道のりは、およそ一キロメートルほどあるうえに、登り坂ばかりである。その坂道を、走るようにして帰り、一刻も早く浄霊をしようとした教祖の愛情に、あまりにももったいないという気持ちが込み上げてきて、とうとうその場にひれ伏してしまったのであった。