浄霊法変わる

 浄霊はこうした教祖の心を体した信者によって、全国に救いの輪となって広がっていったのである。

 昭和二五年(一九五〇年)、教祖は、それまで相手の身体に触れつつ行なっていた浄霊法を、身体に触れず、一定の間隔(基本的には約三〇センチメートル)をあけるように改めた。そして、この年の一二月、その理由を「浄霊法変る」と題して『栄光』八四号に掲載し、その意義をつぎのように説いている。
 「今回、御神示により、浄霊法が変る事になったから、今日以後その通りにされたいのである。これは霊界が最近非常に変って来た為で、それに基いた事は勿論である。今迄の浄霊法は、どちらかと言えば、霊と体との両方が加味されていた。というのは掌から霊を出す場合、ある程度力が加わったのである。力即ち体であるから、それだけ霊の力が減ずる訳になる。(中略)処が、今後はそれが著しくなり、絶対体的力を抜き、霊のみを放射するのである。之を詳しく言えば、神霊の光が私から霊線を通じて、みんなのお守に止どまり、お守からその霊光が掌を透して、病人の患部へ放射されるのであるから、之からは出来るだけ、力を入れないように、軽い楽な気持で霊を放射すべきである。」

この後、教祖はおりに触れて、

 「浄霊は力を入れてはいけない。できるだけ力を抜くように。」
と強調している。
 
昭和元年(一九二六年)の神示によって神から与えられた霊力を自覚し、幾多の実践を経ながら第一段階の浄霊法が確立されたのは、昭和九年(一九三四年)の応神堂開設の時であった。それから時を経ること一六年後の昭和二五年(一九五〇年)一二月、神の経綸の進展によって、浄霊は永遠の救いの業としての在り方が確立し、定められたわけである。

 また、二年後の昭和二七年(一九五二年)二月の立春祭から、参拝の行事が終了したあと、巷拝者全員に教祖が直接に浄霊を行なった。これは一度に大勢の人に浄霊するところから「集団浄霊」といわれる。「面会」の項でも触れた通り、「近ごろは浄化が非常に強くなってきた。」と毎回、約一〇分ほどであったが、参拝のたびに浄霊をすることになったのである。
集団浄霊をするようになってから教祖は、

 「必ず奇蹟が出ているはずだから報告をするように。」

と指示した。その結果、全国各地から数多くの報告が寄せられ、それが機関紙『栄光』に毎号のように掲載された。つぎの報告も、その中の一つである。

 「めったに本部へお参りしたこともない私ですが、明主様のご浄霊をいただけると聞いたので、行く気になりました。

 明主様のご浄霊はどういうやり方か、教会の先生と同じかどうか、それも見たいと思って、他の信者さんが頭を下げているのに、ぼくは頭を上げたまま、明主様の手を視線で追いながら見ていました。ぼくたちの方へ霊気を放射される時も、頭を上げたまま、その手を見ていました。ぼくの態度は、いわば未信者<*>が冷静に観察しているようなもので、信者とすれば不遜きわまりないものであったでしょう。

 浄霊がすみ、明主様が退出されてから、習慣的になんの気もなく、ふと、顔へ手を当ててみると、いつも指先に固く当たるイボがない。オヤッと思って指先で探るように丹念にさわってみたがやっぱりない。今度は左の指先でイボを探してみましたが、これにも手応えがない、どうしたのだろうか。あわてて懐中鏡に映してみると、二つあったイポがなくなっているんです。明主様がお出ましになる時までは確かにあったものが、なぜ、いつのまになくなったのか。品物ではあるまいし、小さくとも肉体の一部であってみれば、切れば血も出るし、痛くもある。それが痛みも痔みも感じないで、いつのまにか除かれている。不思議だ、一体、どうして取れたのか。いくら考えてみてもわからない。どのみち邪魔なものがなくなってくれたのは有難い、と思ってその座を立とうとして、ご神殿に向かって拝礼をした時、“明主様の今のご浄霊で消え失せたのだ”と頭にきらめくものがありました。」
 *信者でない人

 これは、一青年信者の率直な報告である。教祖の浄霊で奇蹟を得たこの青年は、このことを契機にして、教祖に対する考えをすっかり改めたのである。