三 神秘の扉

 こうして大正十三年(四十三歳)には、仕事の方はもうどうしようもない、と思われたほどトコトンまでいためつけられてしまったので、全くやりきれない気持になって、また大本教に入ったのである。そんなわけであるから、今度はすこぶる熱心な信仰者となり、神霊の研究に没頭した。

 かくて現界の「困惑の門」を通って、やがて「神秘の扉」を開き霊界に出でゆくのである。それは大正十三年(四十三歳)から昭和元年(四十五歳)にいたる三年間の道程<みちのり>であった。そしてさらに三年目の昭和三年二月四日には、心機の大転換が起り、現実の事業を一切なげうって、神霊の事業に突入してゆくのである。

 それから六年三ケ月の間、あらゆる霊的研究と相まって、神幽現三界の実相を観入し、人間の病気と健康に関する一大発見などによって、神霊療法こそ、病なき世界を出現させることのできる絶対的方法であることを確信するにいたって、昭和九年(五十三歳)五月一日に、東京市?町区平河町にはじめて民間治療所を開業したのである。

 今までの記述は現実の世界に関してのことであった。それから事業の危機が深刻化するにつれ、現界の人の心は動揺を禁じえなくなって、神にすがろうとするようになり、遂に大本教に入信するにいたった。明主は元来、カンカンの無神論者であった。それが有神論者に一転するのであるから、まさに百八十慶の転回である。

 試みに両手をひろげて後方にまわしてみるがよい。左右の両極はその極まるところ一点に接するのである。右の極は瞬間にして左の極に転換し、左の極は刹那に右の極に移行するのとおなじである。極端な無神論者が大転換して徹底的な神霊論者となつたのも決して故なきことではない。

 どんな無神論者でも、重病や、戦場などで生死の関頭にたたされると、思わず魂の底から神仏を念ずることばが発せられるものだ。関東大震災の時、地獄の猛火にとりかこまれた者、戦時中、爆弾落下する防空壕の中で、恐怖の中に神仏を念じないものがあったであろうか。日頃は無神論者をもって文化人の資格の如く考えていた者でも、いざ土壇場にのぞめば、ひとしく神仏を念ずるのをみたのである。この事実をもって、その人を意気地なしとするにはあたらない。なぜならかかる生死の関頭にたたされて、人ははじめて素直な神の子となりうるからである。

 その刹那、人本然の姿にたちかえることができたからである。それは光明に照らされた尊い本然の姿を現わした壮厳の一瞬だからである。人はなんらかの衝撃がなければ、内部の眼は開かれない、内部の声はささやかれない、内なる魂の目醒めはないものである。

 かくて明主は神霊の自覚に達した。神霊は自覚さるべきものであつて、認識さるぺきものではないであろう。仏の正智をえて万有の如実相を覚えるという正覚によるべきものであつて、現実智の論理的思惟によつて認識さるべきものではないであろう。認識の対象と、信仰の対象とは、その対象性を異にするからである。かつ対象の存在の範疇を異にするからである。

 人は外部の物を見、外界の音を聞くが、さらに内界のものを観、内部の声に聴くことを忘れている。真実のものは内部にある。真実を観、真実を聴くことによつて、深い生活がはじまるのである。

 ここに明主はなおしばらくは現界と霊界の間をゆきつもどりつするが、やがて心霊につぎつぎ奇蹟が起つてくる。そこで遂に現実のいとなみを捨てて、神霊をもとめてゆく。そして神霊の実在を知つてみると、神霊のある霊界こそ本体であり、現界はその移写であることがわかつた。ここに霊主体従の説をなすのである。そこで以下は明主の神霊的発展の記録を主としてゆくであろう。記述はここに表裏一転するのである。それは明主の生活そのものが、表裏一転するからである。

 大正八年に大本教に入信したが、四五年のあいだ中絶し、大正十三年に再信仰となつてから半年ぐらいたった頃、地図製作者の某氏が訪れて、その頃流行宗教であった大本教の話をききたいというので、いろいろな話をしている最中、その人に霊眼が開けて、明主の右の方に等身大の観音様が見えるという。

 それまで明主は観音様の信仰は全然しようとも思つていなかったが、このことがあってから、明主は「自分は観音様に因縁があるにちがいない」と考えた。

 それ以来不思議なことがつぎつぎに起った。

 ある時、大本教信者のある人が、明主の頭上に渦巻が見え、その中心に観音様がおられるといった。その後、昭和元年十二月に神懸りになった時、観音様の御本尊である伊都能売の神様がかかられ、明主の使命を知らせてくれた。それは観音様が明主の肉体を使って人類救済の大業をさせるということであつた。

 昭和元年(四十五歳)漸次、信仰生活がふかまるにしたがって、こういうことを悟った。それは社会悪減少のために志した新聞経営などはまだ効果がうすい。どうしても神霊に目醒めさせる─これだ。これでなくてはだめだ。どうしても人間の魂をゆり動かし目醒めさせなければ、悪の根を断つことはできないということがわかったので、それからというものは、寝食を忘れ、神霊の有無、神と人との関係、信仰の妙諦などの研究に没頭したのである。とともにつぎから次へと奇蹟があらわれる。たとえば知りたいと思うことは、なんらかの形や方法によって必ず示されるのである。そうだたしかに神はある。それもすこぶる身近かに神はおられる。いな自分自身の中におられるかも知れない、と思うほど、奇蹟の連続である。

 それからはできるだけ信仰の知識を得よう、どこまでも深く信仰について究めなければならない、という覚悟で、大木教の出版物の読破につとめた。特にお筆先は繰返し繰返し熟読した。

 大本教では、教祖、出口直子刀自の書かれたお筆先を、唯一の聖書として、拝読を奨励したからでもある。お筆先というのは、明治二十五年一月元旦、教祖が五十五歳の時、祖神である国常立神がのりうつって、それからなくなられるまでの約二十年間にかかれたものである。もちろん神霊現象の一種である自動書記で、たいてい一回のお筆先は半紙数枚ぐらいとして、およそ一万冊というのであるから、実に浩澣<こうかん>なものである。文字は全部いろはで、判読しなければわからないほどの変態文字で、普通の人は半分の意味さえよみとれないくらいである。もっとも教祖は、眼に一丁字もない婦人であったから、どうしてこのような文字が書けたのであるか、これこそ神の文字であると、この不思議な文字にかえって価値を見いだすのである。教祖の跡をついだ出口王仁三郎が、そのお筆先の要所のみを集録して、漢字をまぜた普通の文章としたので、誰にもよみやすいものとなつた。

 お筆先の内容は、過・現・未にわたる神界の真相や教義・予言・道徳・人生観など人事百般にわたっている。文章は幼稚であるが、人間の作品とはうけとれないほど神秘幽玄なものである。その予言にいたっては驚くほど的中している。たとえば明治二十五年から三十年頃にいたる予言のなかには、日本対世界の戦争が起ること、極度の食糧難に遭遇すること、天皇はじめ特権階級の転落や財閥の役落、封建性は解消されて日本が民主化されること、そして平和世界が実現することなど、そのほとんどが的中しているといっていい。しかし予言の大部分はすでに出つくしてしまって、今後に残るものとしては、恒久平和の理想世界がうまれるということだけであろう。

 このお筆先を熟読して、その中に秘められた神秘の世界をあばこうとした。そして神秘をさぐるには神人合一の境地にいたらねばならないと思つて、身魂をみがく修業をした。古代の鎮魂帰神法という修業法は、仏教の禪とよく似ているが、大本教はこれを応用していた。そこでこの方法によつて身魂をみがいたのである。

 すると昭和元年十二月のある夜十二時頃、未だかつて経験したことのない不思議な感じが心に起ったのである。それはなんともいえない壮快感を催すとともに、なにかしらしゃべらずにはいられない気がする。止めようとしても止められない、ロを突いて出てくる力はどうしようもない。止むなく出るがままにまかせたところ、「紙と筆を用意しろ」という言葉が最初であった。そこで家内にそうさせたところ、それからこんこんとつきぬ言葉は思いもよらないことばかりである。

 これは五十万年前の日本の創生記であつた。この神憑りによる神示は七千年以前まで出たが、そこでピタリと止ってしまった。その間、約三ケ月ぐらいであった。

 この時、種々の神や仏が懸ったが、その中で観音様の御本体である伊都能売神がのりうつられて、明主の使命を知らせた。それは観音様が明主の肉体を使って人類救済の大業をさせるということである。そうして「昭和元年から観音様は、始終私の肉体に懸られ、私に種々な事を教えられ、命じられ、自由自在に私の肉体を使われる。全く私を機関として一切衆生を救わせ給うのである。」だから「私が観音様を信仰して、今日のようになったのではない。全く観音様の方で私を道具に使われるのである。こんなわけで私というものは、観音様の身代りといってよかろう。故に観音様という主人が思い通りに使われるので、私としては全然自由がない。といって観音様がふるわれる妙智力は自由無碍であるから、その点また別である。」と明主は述べている。

 かくて明主はこの守護霊によって生きるのである。

 ソクラテスは子供の時から、内心の奥からささやかれる神秘なダイモニオン(神霊)の忠告の声をきいたという。それは物事を行わせようとする命令の声ではなく、事にあたって不正をおこなうことを抑制する力であった。それは善にみちびく力であるとともに、その生活の使命を決定する力であった。それはソクラテスにとつては、神のしるしであり、その心の奥においては、ダイモニオンはやがて神の顕現である。それは神の絶対界から、彼の生命の底にひびいてくるところの消極的な指導者の声であり、守護霊の忠告の声であった。 ソクラテスは子供の純真な心の中に、この神秘な声をきいたという。彼が神の世界をふかく直観しはじめた時代から、この声はソクラテスにひびいたのであろう。それは制止の声であった。自覚時代以後のソクラテスは、この制止の声をきいて、雄々しく人生の行路を、愛智の使命で貫いた。そして七十歳のソクラテスが法廷に死の宣告をうけて、アテネ人の前に立つたとき、もうダイモニオンの声はひびいてこなかったのである。

 神霊の声は絶対界の声としてひびいてくるものであつた。しかるに今やソクラテスは相対界をすてて絶対界に帰一しようとする。かなたから響いてくるものを聞くという、こなたの立場をすてて、響そのものとなったからである。(須江孝雄「世界の六大神秘家」参照)

 ソクラテスの神霊は彼の行動を常に誤りなきように見守っていた。そして誤りを抑制する内心の声としてささやかれた。明主にあつては、神霊は消極的命令者ではなく、積極的命令者であった。そこに神霊のありかたが異っていた。ソクラテスにあっては「神はわれの中にあり」であった。明主にあっては神の身代り、代行者として、神に使われる立場にあった。
 明主はいう、「よく神人合一ということをとなえるが、そういう人は今までに一人もなかつた。釈迦・キリスト・マホメットの三大聖者にしても、神人合一のように見えるが、実は神意の伝達者であり、神意の取次者
である。かく神人合一と神の取次者とは区別されなければならない。神の取次者は神懸りや神の命によつて行動するので、常に神や仏陀を祈り、その守護を仰ぐことにしている。」「われ神と共にあり、神われと共にあり。」といえば、我と神とは一緒におるという共立の関係である。

 「神はわれの中にあり」といえば、我は神を包み、「われは神の中にあり」といえば、神は我を包むとともに包摂の関係にある。

 ポーロのごとく「もほやわれ生くるにあらず、神われにありて生くるなり」とは、自我の否定であり、自己は神の機関にすぎない。明主が「私の腹には光の宝がある。これはある最向の神様の魂であるから、私の言動すべては神様自身が、私を自由自在に動かしているのである。」「観音様は自由自在に私の肉体を使われる。全く私を機関として一切衆生を救わせ給うのである」「観音様の方で私を道具として使われる」というのは神の機関説、「神人機関説」である。

 明主はこの自覚にたつていたのである。そして「われは神たり、神はわれなり」の自意識と自己における「神と人との区別がない」状態意識のなかには「神人合一説」の自覚に近いものがある。しかし厳密にいえば神人合一に達するには、つぎの条件がいる。人は相対界にあるが、神は絶対界にある。人が相対界を脱して、絶対界に帰一するのでなければ、この条件はみたされない。人が相対界を脱するとは、相対界たる現界における存在をみずから否定することによつて、絶対者に帰一することである。そしてそれによつてのみ、それが可能となるのであるから、至難のわざである。

 このように明主は、四十五歳で見真実の境地に達したのである。見真実の境地に入ってみれば、過現未にわたって一切をあきらかに知りうる。もちろん過去の一切の誤りは浮かびあがってくるとともに、未来の世界もその時の人間の在り方も、はつきりと見透すことができるのである。見真実ということは、わかりやすくいえば、ピラミッドの頂点の位置に上ったと思えばいい。ピラミッドの高い尖端に立つて俯瞰する時、高ければ高いほど視野が広くなり、多くのものを見ることができるのと同様である。

 かの釈尊は七十二歳で吾見真実となつたといい、日蓮は五十余歳で見真実となったということであるが、見真実とは、宗教をはじめ、哲学・教育・思想などあらゆるものの深奥なる核心にふれたことをいうのである。それによってあきらかとなったのが、釈尊においては法滅尽と弥勒下生<みろくげしょう>ということである。法滅尽とは仏法の滅尽することである。仏滅後、五百年間、または千年問で、法儀未だ改まらず証悟の人なお多い時代である。つぎの千年間または五百年間は、仏道の感化がゆがめられ、正法変じて似法のおこなわれる時代となる。そしてつぎの一万年で教法の一分を残してはいるが、もはや修業と証果のない時代となる。かく次第を追うて次第に滅し、この三つの時代をすぎれば、仏法は尽く滅するということである。弥勤下生とはつぎのようなことである。弥勒菩薩は釈尊の教えをうけて兜卒天<とそつてん>に上生し、天衆を化導している。釈尊の滅後、五十六億七千万年を経て、再びこの世に下生し、釈尊の教化にもれた一切衆生を救うというのである。さて日蓮においては六百五十年後に浄行菩薩が出現し、義農の世となるということである。キリストは見真実についていっていないが、「天国は近づけり」ということと、「キリスト再臨」の予言は、見真実によらなければ、わかるはずがないのである。

 このように明主は見真実の境地に達して、「神秘の扉は開かれたり」と観じたのである。この神示によって、自分はいかに重大なる使命をもって生れたかということを知りえたので、ここに心機の一大転換が起った。これは安閑としてはいられない。よし全身全霊をこの大聖業に没入しなければならないと覚悟するとともに、昭和三年二月四日の節分の日を期して、それまでの仕事を全部放擲<てき>し、店は支配人の木村に無償でゆずり、敢然として信仰生活に入ることになったのである。ここにいよいよ全身全霊を打込み、神の命のままに進むことになった。なにしろ神の意図が半分、自己意識が半分というようなわけで、普通人よりも心強い気もするが、また心細い気もする。もちろん、それほどの経済的余裕もなく、まあ数ヶ月維持する程度しかなく、確実な収入の見込もない。実に不安定極まる生活ではあるが、しかしたえまない奇蹟や神示の面白さで、経済不安など忘れてしまうほどで、実に歓喜の生活であつた。ただまつしぐらに霊的研究と病気治療(指圧療法)に専念したのであった。

 さきにもちょっとふれたように、明主の第一の生活の現実の幕は下され、第二の生活の神秘の幕があげられた。第一幕は現実の舞台であり、入信から見神への第二は現実から霊界への過程であり、第三幕は霊界の舞台である。そして第四幕は霊界を現界に活現した地上天国の舞台となる。

 ここにキリストの使徒ポーロの回心(心霊的体験)について述べる。ポーロはもとソウロというユダヤ教徒で、キリスト教徒迫害のため、ダマスコへ追跡の道すがら、天の一角から神の声をきく。新約聖書の使徒行伝
の第九章にこうある。「往きてダマスコに近づきたるとき、忽ち天より光いでて、彼をめぐり照したれば、かれ地に倒れて『ソウロ、ソウロ、何ぞ我を迫害するか』という声をきく。彼いう、『主よ、なんじは誰れぞ。』答えたまう。『われは汝が迫害するイエスなり。起きて町に入れ、さらば汝なすべき事を告げらるぺし。』同行の人々、物云うことあたわずして立ちたりしが、声は聞けども誰れをも見ざりき。ソウロ地より起きて目をあけたれど、何も見えざれは、人その手をひきてダマスコに導きゆきしに、三日のあいだ見えず。また飲み食いせざりき。」と、ダマスコにアナニヤという弟子、幻影のうちにキリストの命をうけてソウロの家にゆき、「彼の上に手をおきていう、『兄弟ソウロよ、主すなわち汝がきたる途にて現われ給いしイエス、われをつかわし給えり。なんじが再び見ることをえ、かつ聖霊にて満たされんためなり』ただちに彼の目より、鱗のごときもの落ちて見ることを得、すなわち起きてパプテスマをうけ、かつ食事して力づきたり。」とある。

 天の光を見、(霊視)神の声を聞いて(霊聴)はげしい衝撃に打たれて地に倒れ、盲目<めしい>となつた。アナキヤは宗教幻想(霊視)にキリストを見、その命によって、ソウロの上に手をおけば、(奇蹟能力)「彼の目より鱗のごときもの落ちて見ることを得」たとある。現実を見る目は一度は盲目となり、鱗のごときもの落ちて第三の眼が開かれた。それは真の神霊を観る眼であり、霊の眼である。そしてこの心霊体験は全人格革命をおこし、異教徒ソウロをしてキリストの使徒ポーロに転身させた。「もはやわれ生くるにあらず、キリストわれにありて生くるなり」と、ソウロはポーロとして転生した。「もしわれら御霊<みたま>によりて生きなは、御霊によりて歩むべし」かくて「聖霊の中を歩む」ポーロの布教がはじまつた。

 無神論者であつた明主も、入信から見神にいたつて、第三の眼が開かれた。神霊の存在を覚証し、憑霊現象に神示のコトバをきいて己が使命を悟つた。そして悪覚者の段階に入ったが、やがて昭和九年には霊能者となってあらわれるのである。さきにみたように霊能力には、神霊の姿を観る霊視能力(宗教的幻想・透視・千里眼をふくむ)と、神霊の声を聴く霊聴能力と、神霊がのりうつってコトバを発する憑霊能力(神懸)と、霊力によつて病者を治し(治療能力)、奇蹟をあらわす奇蹟能力などがある。明主には霊視・霊聴・憑霊の能力をはじめ、特に治癒霊力としての奇蹟能力が顕著にあらわれてくるのである。ポーロの「もはやわれ生くるにあらず、キリストわれに在りて生くるなり」の覚証と転生はまた、すでに明主のなかに起っていた。それはつぎのことによつてわかる。大正十三年に某の霊現に明主の右方に観音をみたこと、大本教信者の某が、明主の頭上に、渦巻の中心に観音様が見えるといつたこと、昭和元年の神懸りに、観音様が明主の肉体を使つて人類救済の大業をさせるのだというお知らせのあったこと、それによつて、「昭和元年から観音様は始終、私の肉体に憑られ、私に種々の事を教えられ、命じられ、自由自在に私の肉体を使われる。まつたく私を機関として、一切衆生を救わせ給うた」とあるのは、「われ生くるにあらず、観音われに在りて生くるなり」といいかえることができる。