二 試煉の門

 むかし、在原業平が東に下り、日も暮れようとする頃、隅田川の渡舟に乗り、水鳥をみて、「名にし負はばいざ言問はん都鳥わが思ふ人はありやなしや」とよんだところは、今の言問橋のやや上流、江戸時代まであつた橋場の渡しであつたであろう。

 この渡船場はいまは東京都台東区浅草橋場町という。この橋場の貧民窟に、明治十五年十二月二十三日、古道具屋をいとなむ父喜三郎と母トリとのあいだに生まれたのが、世界救世教明主岡田茂吉である。

 橋場の東は隅田川、その対岸には謡曲「隅田川」で知られた梅若丸の木母寺がある。西に山谷・千束・吉原があり、南に待乳山の聖天様、その対岸ほ桜の名所の向島の場で、その下に「夕立や田をみめぐりの神ならば」の其角の雨乞の句碑のある三囲神社がある。また「いざともに雪見にころぶところまで」の芭蕉の句碑のある長徳寺がある。そしてその下流に言問橋と吾妻橋がある。この二つの橋のあいだの西側の町が花川戸で、幡随院長兵衛や花川戸の助六のいたところである。

 江戸時代にほ金竜山浅草寺の境内の賑わいと、その北東の猿若町の芝居と、北の吉原の遊里とが三角形に位置して、歓楽街をなしていた。

 浅草寺の本尊は観音様、それは昔、浅草川(このあたりの隅田川の名称)で、三人の漁師の網に光を発してかかつたのを祭つたものである。

 観世音菩薩は大慈悲を本誓とする菩薩で、世を救済するから救世大士ともいう。

 観音様のゆかりの土地近い橋場の町に、やがて日本観音教団をつくり、ついで世界救世教の明主となつた岡田茂吉がうまれたのも、深い因縁のあつてのことであろう。されば観世音は後に明主の身体に宿り、神智をもつて自在の妙果をえ、あまねく世の病者を治癒し、大慈悲の本誓を世界救世に実現しようとしたのもゆえあることである。

 明主の曽祖父は武蔵屋喜左衛門といい、有徳の人で義侠の心に富み、よく人に慈悲を施した。岡田家の菩提寺は三河島の観音寺である。そこの御本尊がどういうわけか質に入っておって、すんでに流れるところを買いもどしてやってよろこばれたこともある。

 その慈悲仁侠の気性と善根とは明主にうけつがれたと語つていたが、菩提寺の本尊に思をめぐらせば、観音はまた明主生前からの因縁でもあろう。

 明主がこの世に生をうけた頃、家は困窮のどん底にあった。父喜三郎は正直律義な古道具屋で、鼻もつかえるような手狭な貧乏長屋、店が三畳で居間が四畳半の二間きり、台所わきの便所の臭いがむっとするので、半町もある共同便所で用を足すような潔癖性であつた。母トリは信仰心のあつい、つつましい性質、わずかな物も粗末にせず、「妙理が悪い」というのが口癖で、節約を旨とする女性であつた。父の正直、律義、潔癖も、母の物を大切にする性質も、明主に遺伝し、感化をあたえた。

 その頃の生活の苦しさは、幼な心にもふかくしみこんでいた。家から十町ぐらいある浅草公園に、毎晩、夜店をだしにいったというから、二天門(雷門より東にある)から入って、本堂前から瓢箪池(今は埋めて、東宝の映画館になっている)へでる夜店道へ通ったのであろう。この道の北側が、その頃までは奥山といって、花屋敷などがあり、そのむこうに十二階がみえた。

 明主はその頃を想い出していう。「私が物心ついてから、父からよく聞いた話であるが、今夜、いくらか儲けないと、明日の釜の蓋があかないというので、雨の降らないかぎり、小さい荷車へ僅かばかりのガラクタを
積んで、母は私を背負い、車の後押しをしながらいったということである。

 そんなわけで赤貧洗うが如く、母は今でいう栄養失調というわけで、乳がろくろく出ないので、近所の蓮宗寺の妻君に乳貰いにいったものである。したがって子供の頃と、世帯を持ってからも、相当期間、貧乏の味と金の有難味を充分植えつけられたので、それが非常に役立っており、今もって無駄と贅沢はできないのであるから、むしろその頃の逆境に感謝している。」とある。

 八歳(明治二二年)の頃、橋場の西にあたる浅草千束町に転居した。千束町は吉原の前から浅草寺の北にいたる町である。十二三歳(明治二六─七年)頃までは腺病質の虚弱児童で薬ばかりのんでいた。それでも小学校だけはどうやら終えたが、子供心にも、他の健康児童をみると実にうらやましかったそうである。しかし不思議に学校の成績はよく、たいてい主席か二番であった。そうして十四歳(明治二八年)で小学校を卒業した。

 この頃、日本橋区浪花町へ移転した。その後、京橋区築地町へ、さらに京橋区大鋸町に転居したというが、その年月ははっきりしない。

 小学校をでる頃から、家計もどうやら多少の余裕ができたので、画家になるつもりで、美術学校予備校に入学したが、数ヶ月で肝心の眼を病んだので中退した。その時、眼病によくきくというので、弘法灸というのをすえた。

 これは大きな灸で、そのため右手の人さし指は動かなくなつて絵筆がとれなくなるし、右眼は細く視角に差ができてしまったのであきらめて退学したのである。

 それから今一つの顔貌の特徴はたいへんよい福相だといわれた大きな福耳である。この耳のためにぜひ養子になつてくれと申し込まれたこともあったという。

 眼病の方はその後ニケ年も方々の有名な眼科医にみてもらったが、どうしても治らないのであきらめてしまった。ところが間もなく肋膜炎にかかり、大学病院の施療科に入院して、横腹を穿孔して二百グラムほど、水をとった。これは半ケ年ぐらいで治ったが、その後一ケ年を経て再発した。そこで種々の医療を施したが、だんだん悪くなるばかりで、一年余すぎた頃には肺結核となり、当時、有名な入沢達吉博士の診断をうけたところ、不治の宣告をされた。そこで入院中、病院の食事をとらず、看護婦にたのんで、菜食療法をして全治することができた。

 このように幼年から十二三歳頃までは、腺病質の虚弱児童であり、十四歳でしつこい眼病にかかつてニケ年も病院まわりをし、十六歳頃には肋膜炎にかかり、十八歳頃に再発して悪化し、二十歳頃には肺結核になってしまったのであるから、病気の連続であった。したがって健康については全く自信がなく、それが気特に影響して、内気な意気地なしにしてしまった。それでも二十歳から二十五歳にかけて、一切をなげって健康回復に専念しやや自信をえて独立した。それから事業と病気との苦闘を経て晩年にいたり、現世を天国化するという雄大な構想の実現を確信するようになったのだから、今昔の感にたえないと、つぎのように述懐している。

 「ところが私は、若い時分はそんな大それたことは思ってもみなかった。十五歳から二十歳頃までは、人並以上の意気地なしで、見知らぬ人にあうのはなんらの意味もなくおそろしい気がする。特に少し偉いような人と思うと、思うように口がきけない。また若い女の前などにでると、顔が熱して眠がくらみ、相手の顔さえもロクロク見えず、口もきけないというわけで、大いに悲観したものである。したがつて自分のようなものは、一人前の人間として、社会生活を送りうるかということを、ずいぶんあやぶんだものである。そんなわけで、その頃、世間の人をみると、自分よりはみんな利口で偉いように見えてしかたがなかった。それがどうだ。今とくらべてあまりの違いに、自分ながら不思議にたえないのである。こんなことを書くのも、世間によくある気の小さい青年に読ませたいからで、これを読んだら、どんな小心者でも発奮するであろうと思うからである。」と、

 いかに病弱のために精神がいじけて、内気でひっこみ思案の小心者になっていたかがわかる。

 明治三十八年、五月十日に父喜三郎が死亡した。明主、時に二十四歳であったが、ここに一家の生計をはからなければならなくなった。それまでの数年間、健康回復に専念した結果、漸く健康にも自信がもてるようになつていた。

 明治三十九年、二十五歳の時、亡父の遺産三千五百円を元手にして、日本橋区西仲通りに光琳堂という小間物屋を開発した。屋号を光琳堂とつけたのは、美の極致を創造した最も偉大な画家として尊敬している尾形光琳の名をとつたのである。晩年に建設した箱根と熱海の地上天国の構想は、光琳風を生かしたものである。光琳の味わい深い曲線と構図により、かつ光琳の絵画にある花卉<かき>を庭にうえてある。いわば光琳の絵を庭と建物
にうつしたものである。この面からみた明主の生涯は光琳に出発して光琳の実現に終るのである。しかも九尺間口の借家から出発したものが、やがて箱根の六千坪、熱海の三万坪、それに未完成の京都嵯峨、広沢池畔の二万坪に発展したのだから壮観である。しかしその頃の明主がはたして後日のことを予想しえたであろうか、そういうところにも人生の面白さはある。

 その時、家族は母と手伝いの親戚の娘との三人暮しであつた。親孝行であったから、朝は母より先に起きて、掃除はもちろん飯たきまでしたという。そして商品の仕入れも販売も、自分一人でやったのだから大変である。

 しかも全然、経験がないから、商品の用途さえわからない。その都度、母に聞くのである。これはなんという名前だ、頭のどこにさすものか、というようなわけで、化粧品から油、元結にいたるまで、俗に種類の多いことを小間物屋というくらいだから、おぼえることは容易ではない。その間、客は絶えず買いにくる。

 当時、スキ油一箇、元結一束など一銭であったが、一錢の客にも一々有難うといって頭をさげるのだからたまらない。

 晩年、明主はその頃のことをなつかしんで、客との応対の様子を面白おかしく実演してみせては家人を笑わせた。東京下町の女の子のことばで、声音もそっくりまねて、「元結一束おくんなさい」「はいはいありがとう」とお辞儀をする。「スキ油一つおくんなさい」「はいはいありがとう」とお辞儀しては笑わせたものだ。なにしろ若い頃から芝居好きで、団十郎の当り役、島の為朝が子供をにがすために凧にしばって空にあげ、糸を切つて見送るしぐさの物真似など、明主の座興十八番であつたから、こんなこともなかなか上手であつた。

 話は余談にそれたが、そんな具合で過労がたたり、半年ぐらいで、重症な脳貧血にかかつてしまつた。なにしろ電革通りへゆくと、その音響のため、眩暈がして倒れたり、またものの十分も人と話をすると、口がきけなくなるというくらいだから、その苦痛は非常なものである。二三ケ月、医療をうけたが、効果がない。たまたま、人のすすめで灸療法をうけたところ、やや軽快にむかつた。その先生から運動をすすめられ、晴天の時は一里以上の歩行をした。それが効果を奏し、二三ケ月でほとんど全快した。

 さてその頃の商売のしかたであるが、明主は正直一途であった。父の正直・律義な性質をうけついで「二十五歳で世帯をもつた時親戚の中の苦労人がいうのに、『お前のような馬鹿正直の人間は、世の中へ出たところで成功しっこない。なぜなら、今の世の中で成功する奴は嘘をうまくつき、三角流(三角主義ともいい、義理を欠き、人情を欠き、交際を欠くの三つを欠く主義)でなくては駄目だ』と散々いわれたので、私もなるほどと思い、独立してから一所懸命、嘘を巧くつくように努めてみたが、どうもうまくゆかない。そればかりではない。常に心の中は苦しくてならない。その結果、『俺という人間は嘘は駄目だ。成功しなくてもいいから、本来の正直流でやろう。』と決心し、正直流で押し通した。

 ところがこれは意外、うまくゆく、気持がいい、人が信用する、という三拍子そろつて、トントン拍子に発展したので、それからは今日まで正直流で押し通してきた。そうしてつくづく世の中の事をみると、嘘で失敗する場合ほ非常に多いが、正直で失敗するということは滅多にないものである。」と、もちろん嘘の効用もちゃんと認めているが、もって生れた正直流で、生涯を一貫したのだから愉快である。

 ともかく脳貧血の療養で、半年ほど商売の方がお留守になっていたが、全快したのでそれまでのとりかえしをするために馬力をかけたことと、商売の方も相当、熟練したので非常に繁昌した。しかし前途を考えると、小売より問屋の方が有望と思えたので、多少儲けた金で、東京駅の東側、八重洲通北槇町で問屋をはじめたのが明治四十年頃、それがすこぶる順調に発展した。

 明治四十五年五月二十五日に、母トリが死亡した。明主が三十一歳の時であった。それから大正に入つてからのことであろうか。ある時、三越の仕入部長の高橋某がきて、小間物の仕入について、参考になることをいろいろ教えてもらいたいという。そこで某の問屋はこんな特色がある、こういう品は某の問屋がよいというふうに話してやった。その後、その人がやってきて、先日はいろいろ参考になるお話をうかがったり、よい店を紹介していただいてありがとうございました。その節、御自分の店のことについては、一言半句もおふれにならなかったが、お互に商売のことですから、他はさしおいてもまず、自分の店の品を売り込もうとするのが普通であるのに、あなたはついに御自分のことにはふれられなかった。これはなんでもないようですが、どうしてどうして普通の商人のできることではありません。そのお気性に惚れ込んだのですから、あなたの店からも是非、品物を入れて下さい。というようなわけで、三越とはじめて取引するようになった。

 しかし、実際の商売の取引の方は木村という支配人にまかせ、自分は櫛や装身具のデザインに没頭していたのである。なにしろ子供の時には絵描きになろうとしたほどだから、美術工芸には深い関心と興味をもっていた。それになかなか器用である。小間物の中、装身具などはデザインが一番大切で、それが売れゆきを決定するものである。それでその鋭い美術的感覚でデザインを創案し工夫して、いつも流行の尖端をゆくことを考えていたのである。後の人造ダイヤの発明なとも、そうしてできたものである。こういうわけで商売はうまく当って、商売をはじめてから十年ぐらいの大正五年、三十五歳の時には、京橋でも一流の問屋となった。なにしろ三千五百円の元手で小間物屋の小店をはじめてから、わずか十年ぐらいで、資産も十五万円ほとになり、当時としては異数の成功者といわれたほどである。

 しかしその十年間、健康であったのではない。実は病気の連続であった。商売の方の問屋も繁昌したが、病気の方の問屋もますます繁昌した。すなわちその間、一年に数回ぐらい病気にかかった。そのうちで重症なチブスにかかった時は、もうだめだと思つて遺言までしたくらいだが、それは入院三ケ月で全治した。また痔出血で入院一ケ月、その他、胃病、リヨウマチ、尿道炎、瀕繁な扁桃腺炎、神経衰弱、頭痛、猛烈な陽カタルなど、かぞえ切れないほどである。そのほか歯痛、心臓弁膜症などでもずいぶん苦しんだ。

 殊に大正三四年頃の慢性歯痛の苦しみであるが、なにしろ一本の歯の痛みさえつらいのに、毎日、四本もいっぺんに痛むのだからたまったものではない。何回死んでしまおうと思ったか知れない。

 当時、米国でながく開業していた有名な歯科医に一年ぐらいかかって、あらゆる薬をつけたが、治るどころかますます悪くなるばかりだ。ある日その歯科医は「私の知っているかぎりの薬はみんなつけたが治らないから、これ以上はもうどうしようもない。来月、私の友達がアメリカから帰ってくるので、なにか新しい薬をもってくるだろうから、それをつけてみるよりほかに方法はない」というのである。
 
 その頃、日蓮宗の行者を教えられ、行者のいうとおり一週間かよう気で、歯医者にゆかずに、東京から横浜まで通つた。すると四日目に気分がよくなったので、ふつと薬が原因じゃないかと思った。それで薬をやめてうがいをしていると、だんだん冶ってきた。

 その時、はじめて薬の恐ろしさ、薬毒ということを知った。それで今日、人を救けることもできるので、神様のお仕組であると思つた。薬毒を知ってからは風邪をひこうが、持病の扁桃腺にかかろうが、医者にかからず薬もつけずに節制しているとよくなった。そこで薬の副作用を考慮に入れない医学はまちがっていると考えて、医学衛生のあぺこぺをやると、かえって治りがはやい。

 こうして自分の身体で実験してみて、薬を用いすぎることが、かえって人間本然の生命力や治癒力を弱めてしまうことに気づかない医学のまちがいがわかった。

 ともかくずいぶんいろいろな病気にかかった。病院に入院したこと三回、医師から見放された重症が二回、これからさらに四十歳頃までは、健康な時より病気の時の方が多いくらいで、病気の苦悩は深刻であった。

 しかし、事業はとんとん拍子で、一流の問屋にまでのし上ったから、いささか得意で自惚れる。世の中をも甘くみる。おまけにもって生れた社会正義の観念から、新聞を経営して社会悪を除いてやろうと意気込んで、その資金儲けに無理な仕事に手をひろげたことがたたり、不況の襲来でいためつけられ、つづいて大震災でぺしゃんこになる。さあ、こうなってはニッチもサッチもゆかない。どうしようもなくなって、苦しい時の神頼み、大本教に入信する。

 ここに現実生活から霊の世界へと、人生の舞台が転換する。人生はまるでお芝居だ。病苦・事業苦の現界劇の第一幕が終ると、廻り舞台が動き出し、入信と見神劇の第二幕となる。それからが霊界劇の第三幕。すでに述べた病苦の連続と、つぎにしるす事業の失敗とが、明主の入信の動機となるが、生れながらに社会正義感の強かつたことが、明主を宗教家として大成させたのである。してみると、病苦・事業苦の第一幕も、神様の仕組まれた筋書であつたのであろう。そこでつぎには事巣の方について述べるであろう。

 大正五年(三十五歳)には、すでに述べたように、資産も十五万円でき、一流の小間物問屋になつていた。第一次欧洲大戦の戦時・戦後の景気にのつた大正六・七年頃が、事業の方では得意の絶頂であった。

 大正六年(三十六歳)には旭ダイヤ(人造ダイヤ)という名称の装身具を発明して、専売特許をえた。その頃、全世界の特許法の制定されている国は十ヵ国であったが、その全部の特許権を獲得したのである。これは明主がデザインを工夫考案し、林某という職人を使つてこしらえさせたものである。これを売り出すや、非常に好評を博し、六七年にかけて素晴しい売れゆきであった。三越と特約して、当時の流行品となったので、大いに当った。そこで林を工場主として、相当大きな家を借りうけて工場となし、彼に経営させた。一時は女工数十人を使つて、繁昌したので、明主も大いに儲けたが、林もかなり資産をつくつた。

 この六七年頃は戦時・戦後の好況を背景として事業は隆盛であり、社会悪を矯正する目的で新聞経営をも思いたち、その資金百万円を儲けてやろうと考え、あらゆる金儲けに手をひろげようとした。その頃、吉川某と
いう海千山千のしたたか者と懇意になり、吉川のいうがままに、第一次欧洲戦争後の景気のよかつた株式仲買店に対して金融したが、高利なのでなかなか馬鹿にできないほどの収益があった。そこでだんだん拡張して、当時、日本橋蠣殼町にあった倉庫銀行にもいささか信用ができたから、手形や小切手の割引をしたり、金を貸したり、その利鞘をとっていたので、小切手と現金で十数万円におよんだ。

 ところが大正八年は、明主に災難が相ついでふりかかった年である。まずこの年の春(三十八歳)、金融していた倉庫銀行が、突如、支払停止となり、破産にまで転落したので、その影響をうけて忽ち一大苦境に陥った。そんな時に妻の死にあったのだから、さすがにこたえた。しかも妻は三人目の妊娠五ケ月であった。前の二人の子は死産と流産で、今度の三人目もまた駄目になったので、実に内憂外患、悲観のどん底につき落された。苦しい時の神だのみ、さしもカンカンの無神論者の明主も、種々の宗教をあさりはじめた。それまでは、世の中に神や仏など、そんなものはあるはずはない、それは迷信で人間の気安め以外のなにものでもない、社会のためあらゆる迷信を打破しなければならない、と気負い込んでいたのである。

 とかくするうち、金融先の倉庫銀行が破産したが、それをひたかくしにかくして、小切手を高利貸に割引かしたので高利がかさみ、遂に進退きわまって、明主の前におじぎをしてしまった。明主にとっては青天の霹靂<へきれき> であったが、止むなく一時逃れとして、銀行に頼んで、小切手の支払全部を拒絶したから、さあアイス(高利貸)連中が怒った。アイス連中は差押えの手段をとるとともに、詐欺の告訴をしたので、明主は検事局へ喚び出され、散々油をしぼられた。そこで数人の高利貸に泣きついて、漸く約三分の二の八万円でケリをつけ、半額現金、半額月賦ということになった。

 こうして明主は、思いもかけず借金と緑を結んでしまつた。そしてこれから、それを支払う苦しみがはじまり、昭和十六年まで二十二年間を、アイス族のかわるがわるの差押えに苦しめられる。

 そんな時に縁談が進行して黄道吉日を選ぶと、出しぬけに差押えをうけ、前の事件が起ったので、結婚も不可能と思い、ありのままをザックバランに打ち明けて辞退したところ、先方は普通なら秘密にするであろうことがらを正直にいうとは珍しい、立派な人だとかえって覚められ、担られるところか反対に、ぜひ実行してくれといわれたので、世の中は妙なものだと思つて、その夏、太田良子と結婚した。

 一方、三越と特約してあった旭ダイヤの件について、東京の小間物小売商組合から、二種ある品物のうち一種の方だけ自分の方へ売り、ほかの一種を三越へ売ってくれという、甚だ自分勝手な要求をしてきた。それでは三越を踏みつけにするので、その要求には応じなかった。すると組合は多数の力を頼んで、いうことを聞かせようと、全市の小売商が連合してボイコットをしてきたが、それでもいうことをきかなかったので、一時は大打撃をうけて困ったが、じっと我慢していたところ、二年後に組合の方から我を折ってきて妥協解決した。

 また三越が取引上、理不尽なことをしてきたので、こちらから取引停止をすべく抗議したところ、さすがの三越の係も驚いて、「恐らく今までたいていな無理なことをしても、取引先の問屋の方で我慢するのが常になっていたのが、今度の君のような気の強いことをいってきた人は今までになかった」というのであるが、こちらの方が主張が正しかったので、三越の方から折合ってきて解決した。

 今度は旭ダイヤのエ場を経営させていた林が、慾得づくで、二年もたった今になって、突如、特許権の名義書換えの提訴をした。その理由は「旭ダイヤは自分が発明したのであって、それを岡田が自分の承諾なしに、勝手に岡田の名義にしたのであるから不当である」というのである。これはさきに述べたように、明主が工夫考案して、職人の林に指図して遣らせたものであるから、不当な言分である。そこで工場倉庫に多額の資材をあずけてあるから、横領される危険があるはかりか、そういう悪い奴には一日として工場をまかせておくことはできないので、告訴状のきた日の晩、店長数人をやって資材全部をひきあげさせた。

 すると林は翌日、管轄署へ告訴し、ついで強盗の告訴をした。警察も検事も事情をきいて大笑いとなってすんだが、それは大正八年の暮れのことであつた。

 大正九年(三十九歳)の二月、金融業による痛手のため、営業も窮屈になり、岡田商店を資本金二百万円の株式会社にした。そして商品も充実させた。ところへ三月十五日、パニックの襲来となり、株は大ガラとなり、商品は一挙に何分の一に下落したのだから、生れたばかりの株式会社岡田商店は一たまりもなく転落、ニッチもサッチもゆかないことになった。

 どうにもやりきれなくなって、いろいろと宗教をあさったが、どれもこれも面白くない。それでも当時はなやかであった大本教に、多少魅力を感じたので、その夏、大本教にはいり、信仰生活にはいって、霊の研究をした。

 この時、甥をつれて丹波の大本教にいったが、そこで甥が不慮の死を遂げたので、親戚にはばかってその信仰を控えた。

 この頃、大本教の信者で、大阪のお得意先の知人である坂口某がきて、姓名判断についてかたりあった時、彼はこう判断した。それによると商店などやめて、宗教によって世にたてば、大成するであろうと。しかし何糞と社運挽回に大努力を傾けた。そのためもあって、信仰熱は冷却し、一年ぐらいで忘れたようになった。それでも同業者仲間で会食する時など、よく信仰の話をするので、「神様」の異名をつけられていた。人々が集ってくるまで、明主が女中さんなどをつかまえて信仰の話をしている。人々は「そら、神様がはじまつた」といっていた。

 例の倉庫銀行の件の債務について、執達吏は何回もやってくる。こんなによい耳をしているのに、債鬼にせめたてられるのはどうしたわけかと、みずから苦笑してユーモアをとばしていた。

 大正十年(四十歳)には関東附近の山々をはじめ、日本アルプスの槍ケ嶽に登ったり、奥日光から塩原へ赴いたり、湯西川温泉にいったりした。大正十一年(四十一歳)に、大本教では大事変が起ると予言して問題をおこした。それはいつとは明言しなかつたが、明主は家人にひそかに、しかもその時期は近いと語った。そこで店の方はやむをえないが、住居だけはというわけで、大きな庭石まで入れた京橋大鋸<おが>町の自宅を人に譲って、大森八景坂に転居した。

 会社の方はその後の努力によって、漸く瘡痍も癒えかかり、これからという時になってまた大悲運に見舞われた。天はあくまで無情であった。前年の予感のように大正十二年(四十二歳)の九月一日に関東大震災にあ
い、京橋の店舗も商品も全部烏有に帰し、貸倒れも莫大な額にのぼり、致命的な打撃をうけて、もはや再起不能の運命に陥ってしまった。