一 第三の眼

 雨に濡れた緑の古都、奈良の三月堂(法華堂)の本尊の観音(不空羂索<けんじゃく>観音─一丈一尺九寸の立像、天平仏である)を仰いで佇む。胸前のやわらかい金剛合掌を中心にして、上下とそして左右の均整が集約されている。美しい緊張を保つた集約の線の中心から、統一の力がふくよかにもりあがるボリュームのなかに透視されて、優雅な力感をおぼえる。

 観音は観世音・観自在・光世音ともいい、大慈悲を本誓とする菩薩である。世間の音声を観ずるが故に観世音といい、知慧をもつて観照し自在の妙果をえたものであるから観自在という。衆生にすべてを畏れない無畏心を施し、慈悲をつかさどり、世を救済する。世を教化するにあたつて、種々の形体をあらわし、聖観音を本身として、千手観音、十一面観音など三十三身の変化身がある。

 外はさみだれの晴れ間、しかし堂のなかは暗い。この観音は三目八臂<び>(目が三つ手が八本)という異形で、その額には、眉間の上に縦に切られた不気味な眼があるはずだ。私の心に、島崎藤村のことばがささやく。「古い仏像に眼を三つ具えた相好のものがある。どういう制作者がああいうかおかたちを考え出して、それを仏像に刻んだものか知らないが、一つの眼は眉のまん中から上に縦について、額のところに光っている。ちよっと考えると気味のわるいものだ。何か怪物の異相のようにも思われるものだ。しかしそうでない。あの眼こそ第三の眼というものであろう。それを形にあらわしたものであろう。」と、そしてことばをつづけて、「愚かなものでも第三の眼を見開くことが出来る。だんだんこの世の旅をして、いろいろの人に交ってみるうちには、いつの間にかあの眼で物を見ることが出来るようになる。あの眼はいったい何を見る眠か。と親しみ深く、じかに魂に呼びかけてくる。

 内陣はうすぐらく、その眉間の眼はまださだかにみえてこない。第三の眼はなんの象徴であろうか、仏教ではなんと説明しているのであろうかと、側をかえりみて、特別に案内してくれた東大寺の役僧にたずねた。しかし「さあー」という当惑の声だけが低くつぶやかれた。うすぐらいなかにひらかれているはずの第三の眼─「あの眼はいつたい、何を見る眼か。」と、再び魂によぴかけてきたことばが消えたとき、男女四人の長身の外人が入ってきた。「アメリカのロックフェラーですよ」と役僧がささやいた。

 写真をとりたいという外人のもとめに、案内の若い僧が左側の扉をギイとあけた途端、午後の陽光がさつと観音の面をかすめ、「あッ第三の眼が!」キラッと鋭く光った刹那!「愚かなものでも、第三の眼を見開くことが出来る!」と、百雷一時に落ちるような衝撃を頭上に感じた。冷汗をおぼえているうちに、扉ほ静かに閉され、またもとのうすぐらさにかえつた。

 二つの肉眼は現実の形あるものを見ることができる。現象を見る眼だ。第三の眼は肉眼では見えないものをみる眼だ。それは叡智の眼とも、霊界を観る霊の眼ともいえる。霊眼のひらけないものには、霊の世界をみることはできない。肉眼(俗眼)では霊界をみることはできないからである。第三の眼の開眼によつて、見神の境に達し、真の宗教家となりうるのである。ここに救世教明主の入信から開眼を契機として、その霊の世界の展開についてのべるであろう。

 すなわち前半生は外面の現実生括に生きた社会人としての記述であり、病苦と事業の失敗と妻の死とからきた心の動揺が転換の契機となつて入信し、それ以後の後半生は内面の霊界に生きた宗教人としての記録である。したがって前半は表の現界の年代記であり、後半は裏の心霊の歴史である。