私は神と悪魔について説こうと思うが、これはまことに困難である。何となれば人間は人間であって神でもなければ悪魔でもないからである。しかしながら人間には自由がある。ここでいう自由とは自由主義ではない。しからば何か、それは人間が神にもなり得れば悪魔にもなり得るという自由である。そこで私は霊界研究から得た神と悪魔なるものについての見解を述べてみよう。
まず神の意志とは何ぞやというに、それは絶対愛と慈悲そのものである。しかしながら私の言う神とは正しい神であって、邪神ではないという事も変な訳であるが、神には邪はなく正そのものが本質であるからである。したがってここでいう邪神とは、本来正しい神でありながら一時的過誤に陥ったという訳である。何故神にして過ちを侵すかというに、正神邪神は常に闘争している。その場合八百万の神といえども最高級の神から最下級の神に到るまでの階級は百八十一とされている。したがって二流以下の神は往々邪神に負ける。すなわちある期間邪神の虜になるのである。
本居宣長の歌に「八百万神はあれども心せよ鳥なるもあり虫なるもあり」というのがあるが、その点をよく喝破している。そうして今日までの夜の世界は邪神の力が強く正神は常に圧迫され勝であった。世の乱れはそれが為である。そうして昔から善悪不二、正邪一如等という言葉があるが、これは全く真理である。善悪とは相対的なものであって、善があるから悪があり、悪があるから善がある。したがって善悪は時所位に応じて決めらるべきで、たとえば今日の時代に善であったものが、次の時代には悪になる場合もあり、個人的には人一人殺しても殺人罪になるが、戦争のごとく集団的に多勢を殺す場合、罪人どころか殊勲者として賞讃さるるのである。しかしながら個人にせよ、国家的にせよ悪は一時栄えても結局は破滅するが、善においては一時的には苦しむが、時が来れば必ず栄える。しかも死後の世界の実相を知るにおいて、善は永遠の幸福者たり得るのである。そうして人間が神になるか、悪魔になるかを容易に知り得る方法がある。それは見えざるものを信ずるか否かである。すなわち見えざるものを信ずる人は神にまで向上し、その反対者は悪魔にまで堕落する危険があるのである。
そもそも人間が悪を行わないという事は、見えざるもの、すなわち神仏が見て御座る–という観念によるからで、この世界に見えざるものは何にもないと思う心は、人に見られない、知られなければいかなる悪事をしても構わないという観念になる。ゆえにこの思想を推進めてゆく時結局悪魔にまで堕する訳である。したがって唯物主義者に真の善人がありよう訳がない。もし唯物主義者にして善人でありとすれば、それは衷心からの善人ではなく、信用を保たんが為の打算的で、暴露の場合信用の失墜を恐れるからで、いわば功利的善者でしかないという事になる。読者よ、こういう偽装善人があまりにも多い現代社会ではあるまいか。この意味において見えざるものを信ずる人こそ真の善人でありと断定して差支えないのである。
ここに注意すべき事がある。それは正神と邪神との信仰の結果である。それは世間往々神仏を熱心に信仰しながらも、家庭のものや他人に対する行動の面白からざるものがある。愛が無く利他的観念が乏しかったり、又は虚偽、不正を平気で行うという人があるが、これ等は信仰の目標である神仏が邪であるからで、それについてこういう話がある。ここに一人の旅人があったが、無銭飲食によって警官が訊問し懐中を査べた。所が胴巻に百円の札束があったので詰問した所、この金は〇〇寺様へ奉納する金だから、百円から一文も減らす事は出来ないという。これなどは邪宗信者の典型であろう。したがってかような信仰者は一生懸命信仰しながら邪道へ陥り、不幸者となるのである。ゆえに信仰に熱心であればあるほど健康を増し、家庭は円満となり、家は富栄え、他人から敬愛されるというようになるこそ、正しい信仰の結果で、もちろんその神は高級なる正神正仏である。
又こういう事もある。全くの至誠をよって神に仕え、熱烈なる信仰を捧げ長年月に及ぶも病気、貧困、不幸等絶えず襲いかかり、苦悩の生活から離脱出来ない人があるが、それに対し道理をつけて善に解釈する。すなわち神の試練又は罪障消滅なる言葉である。又難病の場合、宗教家に相談すると、曰く人間はすべからく死生に超越せよなどというのである。しかるに私は思う。右の両方共正神であるが、実は二流以下の神で絶対の力がないからである。しからば今日まですべての宗教、すべての神は何故絶対力を発揮し得なかったかという点であるが、これには理由がある。すなわち夜の世界の期間は、月神系の神仏であって、月神系は二流以下の神格であるから、絶対力を発揮し得なかったのである。