薬の逆効果 薬毒論と代謝

 次に薬の逆効果をかいてみるが、再三述べたごとく、今日まで広い世界に薬で病が治った例しは一人もない事である。もちろん治るという事は、手術もせず薬だけで再びその病気が起らないまでに根治する事であって、これが本当の治り方である。ところが事実はそのことごとくが一時的効果でしかないのは、一例を挙げればかの喘息である。この病気に対する特効薬エフェドリンのごとき注射にしても、なるほど最初は一本でピタリと止まるが、それはある期間だけの事で、しばらくすると又起るというように、その期間も漸次狭まり、初めの内は一ケ月に一回で済んだものが、三週間、二週間、一週間というようになり、ついには一日数回から数十回に及ぶ者さえある。そうなると自分で注射器を握り、その都度射つのであるが、こうなるともはや死の一歩手前に来た訳で、まず助からないとみてよかろう。ところが喘息ばかりではない、あらゆる注射もそうであるから、実に恐るべき問題である。もちろん服薬も同様であって、世間よく薬好きの人とか、薬の問屋、薬詰めなどといわれている人もよくあるが、こういう人は死にもせず、健康にもならず、中途半端で年中ブラブラしていて、生きているのは名ばかりである。ところがそういう人の言い条<いいじょう>がいい。「私が生きているのは全く薬のおかげです」としているが、実は薬の為に健康になれないのを反対に解釈したので、薬迷信が骨の髄<ずい>まで沁み込んでいる為である。これを一層判り易くいえば、いかなる薬でも麻薬中毒と作用は異らない。ただ麻薬は薬の効いてる間が短いから頻繁に射つので、普通の薬は効いてる間が長い為気が付かないまでである。この理によって麻薬は急性、普通薬は慢性と思えばよく分るであろう。

 そうして薬について医学の解釈であるが、それはどんな薬でも余毒は自然に排泄消滅するものとしている考え方で、これが大変な誤りである。というのは元来人間の消化器能<機能>は、消化される物とされない物とは自ら区別されている。すなわち消化されるものとしては、昔から決っている五穀、野菜、魚鳥獣肉等で、それらは人間の味覚と合っているからよく分る。これが自然に叶った食餌法である以上、これを実行していれば病気に罹る筈はなく、いつも健康であるべきである。それだのに何ぞや、アレが薬になるとか、これは毒だなどといって、人間が勝手に決め、食いたい物を食わず、食いたくない物を我慢して食うなど、その愚なる呆れる外はないのである。又昔から良薬は口に苦しというが、これも間違っている。苦いという事は毒だから、口に入れるなとその物自体が示している訳で、毒だから浄化が停止され、一時快くなるので効くと誤ったのである。

 元来消化器能<機能>なるものは、定められた食物以外は処理出来ないよう造られている以上、薬は異物であるから処理されないに決っている。それが体内に残存し、毒化し、病原となるので、この理を知っただけでも、人間は大いに救われるのである。しかも薬剤の原料はことごとく毒である事は、専門家もよく知っている。それは新薬研究の場合、必ず毒物を原料とする。かの梅毒の特効薬六〇六号にしても、耳掻<みみかき>一杯で致死量という猛毒亜ヒ酸である。又近来流行のペニシリンにしても、原料は水苔であるから毒物ではないが、人間の口へ入れるべきものではない。魚の餌として神が造られたものであるから、人間に役立つ筈はない。又よく薬の分量を決め、破ると中毒の危険があるとしているが、これも毒だからである。

 以上によって薬と名の付くものはことごとく毒であり異物である以上、消化吸収されず、体内に残って病原となるという簡単な理屈が分らないというのは、全く医薬迷信の虜になっているからである。

「医学革命の書」 昭和28年01月01日

S28医学革命の書喘息