和服と洋服

 教祖はふだん、兵児帯を無造作にくるくると巻き、着流しのままで人に会ったりした。そこで教祖は服装に無頓着であると早合点する者もあった。しかし、事実は、まったく反対で、身だしなみには大変鋭敏な感覚をもっていた。このことは教祖の和服の仕立てを担当していた松本吉雄のつぎの話によっても知ることができよう。
 「明主様は、衿幅がちょっとでも狭いと、すぐお気付きになって、縫い直すように言われましたし、着物の丈など、ほんの一分(二~三ミリ)の違いでも、『今度のはちょっと短かったな。』と言われました。丹前に入れる綿の量も同様で、少しでも綿の量が違うと、必ず『もっと多く。』とか、『もっと薄く。』とか言われたので、本当に勘の鋭いお方だなと思いました。ですから明主様のお召物の仕立てには、ずいぶん気を付けました。」

 このような教祖の感覚は、天性の感受性の鋭さが、長年の間に磨きあげられていったものと考えられる。

 「人間の衣食住は、分相応を越えない限り、出来るだけ美しくすべきで、これが神様の御意志に叶うのである。何よりも、美は自分一人のみの満足ではなく、他人の眼にも快感を 与えるから、一種の善行とも言えるのである。」(『天国の礎』合本・二九八頁)

と説き、また、

 「人間洒落っ気がなかったらおしまいだ。みな大いに洒落るべし。」

といつも話していた。教祖は、晩年でも、

 「爺くさいのはいやだよ。」

とよく口にしたものであった。

 外出のため、服装を整える時には、洋服ならばネクタイ、和服の場合には羽織の紐をあれこれ見比べ、一番ぴったりしたものを選んで出かけた。このようにみずからネクタイに深い関心をもっていた教祖は、男の人の締めているネクタイを見れば、その人の美的感覚や、洒落っ気の程度がわかると、よく言っていた。

 よ志の着物も、たいていは教祖が見立てたものであった。半衿のような小さな物もそうであったが、実業家として活動した時代には、でき合いでは気に入らず、よ志の着物の図柄をみずから描き、それを日本橋にあった高級呉服の専門店に注文して作らせたこともあったという。子供たちの着る物に対しても同様だったので、新しく作った場合など、教祖に見せて、それでよいと及第の声のかかるまでは、みんな心配で落ち着かなかった。

 晩年の一〇年ほどの間、教祖の洋服を仕立てた村田祥悟は、
 「明主様はお見立てが上手で、お嬢さんの服地を持って行っても、明主様がお見立てになる。その場にいらっしゃらない時は、お嬢さんが明主様に見せに行き、『お父さまがいいとおっしゃったから。』といって、お買い上げになったものでした。ご自分のものはもとより、奥様、お嬢さんの着物まで見立てられたんですから、大したものです。」
と言っている。

 このようにみずから見立てて入手したものを、教祖はいつも大切に使っていた。仕立屋の松本は、
 「世間の人は、〝明主様はさぞいいお召物ばかり着てられただろう″と思うかもしれませんが、生地はたしかにいいものをお選びになりましたが、それをすり切れるまで着て、さらに何度も継いだり、かけはぎをしたりしたものをお召しになりました。

 着物の袖口など、すっかりすり切れているので、もうこれが最後だと思いながら繕いますと、またすり切れるまでお召しになる。それを洗い張りしてまた繕うという具合で、ほんとうに明主様はものを粗末になさいませんでした。」
と述べている。足袋でも、底が破れるまで使用するなど、その倹約ぶりは徹底していた。いい生地を選んだのも贅沢をするということではなく、良いものは長持ちするという理由からであった。

 このように、身だしなみにも発揮された教祖の美的感覚は、垢抜けしていることを意味する、粋という言葉に集約することができよう。

 江戸時代、金は沢山持ちながら、贅沢を禁じられた商人たちは、着物の裏地に贅を凝らしたり、同じ柄の着物を何枚も作って、常に着くずれのしない身なりを整えるというように、表立たないところに美しさを競った。それが、粋という言葉に象徴される洒脱な町人文化を育てたといわれる。

 ふだん和服を着ることの多かった教祖は、紺足袋を好んではいたが、この紺足袋は建設中の瑞雲郷を視察し、汚れて帰ってきても洗わせずに、汚れが乾いてから、もみ落とし、はたいておくだけであった。これは紺足袋を洗うと色が褪せて、みすぼらしくなるからである。生粋の江戸っ子である教祖は、身だしなみにも当然、粋を重んじたのである。一見したところ派手さはない。ところがよく見ると吟味し、選び抜かれた布地の着物であるという具合であった。