明治四〇年(一九〇七年)、岡田商店の発足後間もないころに岡田家に嫁いだタカは、大鋸町に自宅ができるまでの、およそ一〇年というもの、家事を切り回し、店員の世話をし、店の仕事を手伝って教祖を助けた。結婚後一年目に結核になったのも、人に倍する働きのせいである。
その結果つい身体に無理がいくことになったのである。
岡田商店の礎が築かれる初期の時代ほど、タカの働きは大きな意味を持っていた。米屋の娘として育ち、商家に嫁いできたタカは、持ち前の積極的な性格で商売に打ち込んだのである。
奥から出向いて店員が賑やかに立ち働く店に立つことに、また、月々売り上げが伸びていくことに言い知れぬ喜びを感じたことであろう。明治以後の日本の社会を、陰から支えてきた女性に共通する、勤勉で意欲的な性格の、まさに典型的な内助の功を発揮した主婦であったといえよう。
ひとつ興味深いのは、タカが嫁にきたそのころから、商売がとんとん拍子に拡張し、タカが亡くなって間もなく、破産をしたことである。タカは、富を呼ぶ強運の星のもとに生まれていたのであろう。したがって、教祖が世俗的な成功を収めた時代、伴侶となるにふさわしい女性であったといえるのである。
しかし、華やかな成功の反面、教祖の家庭生活には寂しさがあった。長い間、子供に恵まれなかったことである。母・登里の亡き後も、姉の志づの遺児・彦一郎を手元に置いて実の子供同様大切に育てていた。タカが猫を非常に可愛がって友禅金紗(金糸を織りこんだ縮緬〈ちりめん〉や御召)で着るものを縫ってやったりしたのも、子供のない寂しさのためであった。
ところが、もう締めてしまったころ、タカが妊娠した。結婚後八年目のことである。夫婦の喜びはどれほどのものであったろう。タカはその時、すでに二七歳、当時の常識では、初産を迎える歳としては若い方ではない。子供の生まれる日を指折り数えるようになって、それまでに味わったことのない喜びと充実感が身内に広がるのを感じたのである。教祖はタカを気づかい、店や家庭のわずらわしさが身体に障らないようにと、しばらくの間、金沢の別荘へ静養にやった。こうして大正四年(一九一五年)一〇月一日、タカはめでたく女の子を出産した。子供は「茂子〈しげこ〉」と名付けられた。しかし、大変な難産であった。そのために生まれて間もなく、幼い命は失われてしまった。
夫婦の悲しみは大きく、しめやかな葬儀が行なわれたが、その寂しさはいつまでも続いた。
しかしそれから間もなく、タカはふたたび身籠った。ところが、今度こそ無事に育ってほしいという夫婦の願いも空しく、生まれてきた女の子は死産であった。
タカが三度目の子を身籠ったのは大正七年(一九一八年)のことである。三度目の正直という言葉もある。タカは祈るような気持ちで自分の身体を大切にし、教祖もこのうえない心づかいでタカをいたわった。金沢の別荘で静養させたのは今回も同じであった。しかしその努力も空しく、お産を控えてタカは腸チフスにかかってしまい、大変苦しんだ未、大正八年(一九一九年)の六月四日に大鋸町の自宅で女児を早産した。生まれ出た子は未熟児で、生きていく力がなく間もなく死んでしまった。母親のタカも衰弱が激しく、一週間後の六月一一日ついに息を引き取ったのであった。
葬儀は岡田家の菩提寺である観音寺で、しめやかなうちにも数多くの供花に囲まれ、盛大に行なわれた。
タカの葬儀が終わった時、応接間に坐って腕を組み、じっと考えこんでいた教祖は「片腕をもがれてしまったよ。」と手伝いに釆ていたタカの姪・鵜飼花子につぶやいた。常日ごろどんなことがあってもけっして弱音を吐くことのなかった教祖である。よくよくの思いであったのであろう。
教祖はタカの死後、金沢の別荘を義母のいわ〈ヽヽ〉に無償で譲った。
「私もやがて後添いをもらわなければならない。新しい女房と二人でやってこられてはあなたもおいやでしょう。ですからこの家を差し上げます。自由に使って下さい。」
と言い、さらに、
「タカが身重の間に、いろいろお世話になりましたから……。」
と、金沢にあった土地も実家に譲ってしまったのである。また、大鋸町の自宅の近くに住む産婆の水留ひさは、これまでタカの出産をすべて世話してくれた人である。今度も夜を日に継いで献身的に働いてくれたその労に対し、タカの死後手厚く謝礼をしたのであった。