熱海に東山荘を入手して以来、瑞雲郷に会館が完成するまで、教祖は市内清水町、つぎに咲町見の建物を入手し仮本部とした。また東山荘に代わる最終的な私邸として、市内水口町の碧雲荘を入手している。熱海市内に散在するこれらの施設は、どれも教祖ゆかりの建物であり、終戦前から昇天まで、十年余にわたって神業が展開された、教団の歴史を刻む貴重な建物である。
すでに記したように、教祖は昭和一九年(一九四四年)以来、冬は熱海の「東山荘」に住むこととなり、ここを拠点として、聖地・瑞雲郷の建設を進めた。同時に、それから四年間、この東山荘の別館を信者との面会の場として使用したのである。
そのころ、おもな会を一から九の日に割り振り、毎月上、中、下旬の三回ずつ面会が行なわれ、一〇の日は休みであった。面会のない日、教祖は、午前中は別館の光明の間で揮毫や、原稿の口述をし、午後は庭の手入れをすることが多かった。明るい海がすぐ目の前に広がり、日のいっぱいにあたる庭で、植え込みが、丸くこんもりとなるように、鋏で剪定することもあり、春先、他のほとりの梅の古木が花開くと、その前に立って飽かず眺めるのであった。
海山の眺め好きかな豊かなる温泉もありて熱海飽かなき
冬龍る部屋の披璃戸に静かなる伊豆の海原日々眺めゐぬ
東山荘入手のころのエピソードとしてつぎのような話が伝えられている。最初の持ち主である第一銀行頭取の石井健吾の時代から、植木職人の一家が管理人を兼ねてここに住んでいた。教祖は東山荘を入手してからも、この一家をそのまま住まわせ、おりに触れて心をかけ、戦中、戦後の食糧難時代、米や野菜を分け与え、
「うちにはなんでも沢山あるから、欲しいものがあったら持っていって食べなさい。」と優しく言うのが常であった。一家は教祖の言葉を身にしみて有難く思い、心を尽くして永く奉仕したのである。
似たようなことは、箱根の神山荘や、後に購入した熱海清水町の別院にもあった。神山荘にいた管理人には、強羅から少し離れた二ノ平に家を与えて住まわせたし、清水町の管理人の場合には、引き続きそこへ住まわせて庭内の管理にあたることを許したのであった。
なお、東山荘は現在、教祖記念館として保存され、全国の信者が訪れている。