大本には「宣伝使」という布教上の資格があり、さらにその資格の中にも、階級の別があった。大本に戻った教祖は昭和二年(一九二七年)東京愛信会の明光支社・主任となり、翌三年(一九二八年)四月には准宣伝使、同七月には正宣伝使というように、とんとん拍子に昇格をし、昭和四年(一九二九年)二月には東京本部・常任委員となっている。この数年間の歩みから、徹底して一途に信仰の道を歩み、悩み苦しむ人々の心を引き付け、多くの人を導いていった足跡をたどることができる。
信仰を説く教祖の話は、魅力にあふれたものであった。相手に対し、まったくといってよいほどに構えがなく、気のおけない印象を与えたのである。
教祖は和歌にしても冠句にしても、信仰の世界のみにこだわることはなかった。人としての自然の情や恋愛感情なども積極的に題材とした。新しく信仰の門をくぐる人に教えを説く場合にも、同じことが言えた。いきなり神の道を説くのでなく、ごく卑近な話題から始まり、一つ一つ積み重ねるようにして説き進み、ついに神にいたるというふうであった。その人格に触れた人々は、大きく温かく包み込まれるような魅力に引かれ、その救いの力に感動して、日一日と入信者がふえていったのである。
こうした発展の様子を教祖は『日記』の中に詠んでいる。
吾が力日々に加わりゆくにつれ服(まつ)ろうまめ人*増へてゆくかな
*誠心のある人の意味から信者をさす
吾言葉耳傾くる人日に月に殖えゆくさまの楽もしきかな
段々と神業進み忙がしくいよいよ千手観音の吾れ
当時、教祖を信奉する信者の中に正木三雄という人物がいた。大正九年(一九二〇年)一〇月の入信なので、入信後、教祖の徳を慕って門下にはいったものであろうと思われる。彼は大本時代に各支部の相談役を歴任し、後には「大日本観音会」次長を勤めた。東京の麹町に住んでおり、時々、同じ区内の山室という信者の家をたずねていた。
山室は、茶を扱う商人であったが、教祖の最初の弟子ともいうべき人物である。教祖は昭和四年(一九二九年)四月、山室のために麹町五丁目に家を借りて梅香荘と名付け布教に専念させた。この山室の活躍によって、麹町方面にしだいに教線が広がったのである。昭和四年(一九二九年)三月八日の 『日記』にはつぎのような歌がある。
山室氏活動なせる甲斐〈かい〉ありていよいよ開けゆく聖城*の下
*皇居のある宮城。麹町はこの宮城に隣接する区であった
そして山室は昭和四年(一九二九年)四月、竹村良三という人物を正木に紹介した。
竹村家は天保二年(一八三年)創業の履物屋で、屋号を森田屋といい、宮内省御用達の由緒ある家柄であった。竹村は後に区会議具に立候補して当選している。このように経済的には何ひとつ不自由のない家でありながら、家庭内には病人が絶えなかった。一人が良くなればほかの一人が床につくという状態で、正木に紹介されたのも竹村の孫の病気が緑だったのである。
竹村は教祖の力の偉大さに感服して、昭和四年(一九二九年)四月に入信した。この竹村の入信によって教祖の念願であった麹町布教が大きく前進することになる。竹村は、家族はもちろんのこと、親戚や使用人にも鎮魂を勧め、その中から多くの人が入信したのである。後に教祖が麹町に進出したおり、家を探すことに尽力するなど、竹村は地元の有力者として、物心両面にわたって教祖によく尽くした。
竹村は正木同様、大森時代から、教団の草創期を支えた有力な信者で、各支部の相談役などを歴任し、「大日本観音会」が発足した時には会長に就任している。思想統制が強化され、新宗教が弾圧の危険にさらされていた当時、区会議員の肩書をもつ竹村の存在は大変に貴重なものであった。
ともあれ、正木、山室の活躍と、竹村の入信で、麹町にはしだいに信者がふえ、教祖はやがてここに布教の拠点を設けて、大森から通うようになるのである。
教祖は当時、大本の東京本部・愛信金の常任委員として、相談役をしていた大井支部をはじめ、荏原〈えばら〉支部(当時の荏原郡、現在は品川区)、玉恵支部(場所不明)、豊玉支部(豊玉郡杉並町、現在、杉並区)の、月次祭や講演会に出席した。
月次祭は、まず参拝に始まる。教祖が話をすることもあり、大本から派遣された宣伝使が話をすることもある。また信者が体験談を発表する場合もあった。これらが終了すると、冠句会が催される。
賑やかに楽しく句会が終わると、直会〈なおらい〉(祭典が終わってから神に捧げた供物を下していただく酒宴が開かれる。直会の後、信者の多くは帰途につくが、現って教祖を囲み、胸の内にある苦しみや、あるいはまた、人生の問題、真理追求の情熱をありのままにぶつけて、熱心に教えを求める人も多かった。一方教祖もまた、信者の話にじっと耳を傾け、時の移るのも忘れて、教え導いたのであった。