明治二二年(一八八九年)一月、六歳の年に教祖は浅草山谷町の私立・日新尋常小学校へ入学した。この小学校は、先に触れたように、その年の七月に「小学校設置願」を提出しているので、入学のころはまだ寺小屋式の私塾であったと考えられる。その年のうちに認可がおり公認の小学校となったが、その時点で教祖は二年に進級したようである。これは、翌二三年(一八九〇年)春の修業証書に「第二年修業ヲ證〈しょう〉ス」とあり、またその前年九月一六日に「学業勤勉併二其筆跡〈そのひっせき〉ノ優美ナルヲ賞ス」という賞状も残っているので、二年編入は学業優秀なるによって特別に扱われたものと推察される。
このころの小学校では、修身教育(生涯の身を修める道徳教育をさす)をとくに重視し、教科書としては文部省が刊行した、『小学校修身訓』が使われた。その第一貢〈ページ〉には、「玉磨か〈たまみが*〉れば器を成さず、入学ばざれば道を知らず」という中国の古文献『札記』から引用した格言が記されていた。昔は、繰り返し朗読して暗誦する教育法がとられていたから、おそらく教祖も、この言葉を心の奥深くに強く焼き付けたことであろう。
*振り仮名は編集者・挿入
また、現代の教育施設などから見れば当時は比較にならぬほど貧弱ではあったが、その不備を教師が熱意で補った。一人一人の生徒に愛情を注ぎ、心を通わせあい、人格によって生徒を感化し、天分を伸ばす、いわゆる全人教育が行なわれた。それゆえに、この時代に、人間としてのスケールも大きく、視野の広い、大局を見通せる人材が多く輩出したのはけっして偶然ではなく、こうした教育に因るところが大であったと考えられる。
「小学校令」で義務教育がうたわれたものの、民衆はまだそれほど教育を重んじていなかったし、法令そのものの拘束力も、徹底を欠いていた。近代教育の揺籃期にあって、形としての制度は急速に整えられたものの、これに対応する国民の実情、また、近代教育の必要性に対する理解度との間には大きな隔たりがあった。そういう一般の趨勢の中で、貧しい状況の岡田家が、進んで次男坊である教祖を小学校へあげた両親の心づかいには、並々ならぬものがあったことと察せられる。日新尋常小学校の月謝は二五銭以上、五〇銭以下と定められていた。蕎麦の盛り、かけ一銭、米一升(一・五キロ)五銭四厘といった物価を思いあわせると、その金額はけっして小銭ではなかったはずである。
この両親の愛情を、自己一身への期待と感じとってのことであろうか。教祖は橋場の自宅から小学校まで片道二〇分はかかる田舎道を毎日通って、学業に励んだのであった。