天国と地獄

 天国は、さきに述べたごとく上位の三段階になっており、第一天国、第二天国、第三天国がそれである。第一天国は最高の神々が在<おわ>しまし、世界経綸の為絶えず経綸され給うのである。第二天国は第一天国における神々の補佐として、それぞれの役目を分担され給い、第三天国に至っては多数の神々が与えられたる任務を遂行すぺく活動を続けつつあるが、もちろん全世界あらゆる方面に渉っての活動であるから、その行動は千差万別である。第三天国の神々は中有界から向上し神格を得たのであるから、人間に最も近似しており、エンジェル(天使)とも言わるるのである。

 右は神界構成の概略であって、神界は今日まで約三千年間、仏教の存在する期間は甚だ微々たる存在であった。何となれば神々はほとんど仏と化現され、そうでないのはほとんど龍神となって時を待っておられたのである。又神々は仏界を背景として救いの業に勤<いそ>しみ給うたので、その期間が夜の時代であって、昼の時代に転換すると同時に神界は復活するという訳である。

 次に、極楽浄土は仏語であって、他界の中に形成されているが、極楽における最高は神界における第二天国に相応し、仏説による兜率天<とそつてん>がそれである。そこに紫微宮<しぴきゅう>があり、七堂伽藍<しちどうがらん>があり、多宝塔<たほうとう>が聳<そぴ>え立ち、百花爛漫として咲き乱れ、馥郁<ふくいく>たる香気漂い迦陵頻伽<かりょうぴんが>は空に舞い、その中に大きな池があって、二六時中蓮の葉が浮かんでおり、緑毛の亀は遊嬉<ゆうき>し、その大きさは人間が二人乗れる位で、それに乗った霊の意欲のまま、自動的にどこへでも行けるのであって、何とも言えぬ楽しさだという事である。又大伽藍<だいがらん>があって、その中に多数の仏教信者がおり、もちろん皆剃髪<ていはつ>で常に詩歌、管絃、舞踊、絵画、彫刻、書道、碁、将棋等、現界におけると同様の娯楽に耽<ふけ>っており、時折説教があって、これが何よりの楽しみということである。その説教者は各宗の開祖、例えば、法然、親鸞、蓮如、伝教<でんぎよう>、空海、道元、達磨、日蓮等である。そうして右高僧等は時々紫微宮に上り、釈尊に面会され深遠なる教法を受け、種々の指示を与えらるるのである。紫微宮のある所は光明眩<まばゆ>く、極楽浄土に救われた霊といえども仰ぎ見るに堪えないそうである。

 極楽の下に浄土があって、そこは阿弥陀如来が主宰されているが、常に釈迦如来と親しく交流し、仏界の経綸について語り合うのである。又観世音菩薩は紫微宮に大光明如来となって主座を占められ、地上天国建設の為釈迦、阿弥陀の両如来補佐の下に、現在非常な活動をされ給いつつあるのである。しかしながら救世の必要上最近まで菩薩に降り、阿弥陀如来に首座を譲り給うたのである。

 そうして近き将来、仏界の消滅と共に新しく形成さるる神界準備の為、各如来、菩薩、諸天、尊者、大師、上人、龍神、自狐、天狗等々、漸次神格に上らせ給いつつ活動を続け、すこぶる多忙を極められつつあるのが現状である。

 次は地獄界であるが、これは天国とはおよそ反対で光と熱がなく、下位に往くほど暗黒無明の度を増すのである。地獄は昔から言われるごとく種々雑多な苦悩の世界で、私はその概略を解説してみよう。

 まず主なる種類を挙<あ>げれば、針の山、血の池地獄、餓鬼道、畜生道、修羅道、色欲道、焦熱地獄、蛇地獄、蟻地獄、蜂室地獄等々である。

 針の山は、読んで字のごとく無数の針が林立している山を越えるので、その痛苦は非常なものである。この罪は生前大きな土地や山林を独占し、他人に利用させない為である。

 血の池地獄は、流産や難産等出産に関する原因によって死んだ霊で、この種の霊を数多く私は救ったが、それはすこぶる簡単で祝詞を三回奉誦し幽世大神様<かくりよのおおかみさま>に御願いする事によって、即時血の池から脱出し救われるので、大いに喜ぶのである。血の池地獄の状態を霊に聞いてみると、こうである。その名のごとく広々とした血の池に首の付根まで何年も漬<つか>っている。その他の水面ではない血の面に無数の蛆<うじ>が浮いており、その蛆が絶えず顔面に這上ってくる。払っても払っても這上ってくるので、その苦しみは我慢が出来ないという事である。この原因は生前無信仰者にして、その心と行に悪の方が多かった為である。

 餓鬼道は、その名のごく飢餓状態で、常に食欲を満たそうとし焦躁している。それ故露店<ろてん>や店先に並んでいる食物の霊を食おうとするが、これは盗食<ぬすみぐ>いになり一種の罪を犯す事になるので、止むなく人間に憑依したり、犬猫等に憑依し食欲を満たそうとする。よく病人で驚くほど食欲の旺盛なのがあるが、これは右に述べたごとき餓鬼の霊が憑依したのである。又犬猫に憑依した霊は漸次畜生道に堕ちる。その場合人間の霊の方が段々融け込んでゆく。丁度良貨が悪貨に駆逐されるように、遂に畜生の霊と同化してしまうのである。この意味において、昔から川施餓鬼<かわせがき>などを行うが、これは水死霊を供養する為で、水死霊は無縁が多いから供養者がなく、餓鬼道へ堕ちるので、餓鬼霊に食物を与え有難い経文を聞かせるので、大きな供養となるのである。

 餓鬼道に堕ちる原因は、自己のみが贅沢をし他の者の飢餓など顧慮しなかった罪や、食物を粗末にした等が原因であるから、人間は一粒の米といえども決して粗末にしてはならないのである。米という字は八十八と書くが、これは八十八回手数がかかるという意味で、それを考えれば決して粗末には出来ないのである。私も食後茶を飲む時茶碗の底に一粒も残さないように心掛けている。かのキリスト教徒が食事の際合掌黙礼するが、これは実によい習慣である。もちろん食物に感謝の意味で、人間は食物の恩恵を忘れてはならないのである。

 畜生道は、もちろん人霊が畜生になるので、それはいかなる訳かというと、生前その想念や行為が人間放れがし、畜生と同様の行為をするからである。例えば人を騙<だま>す職業すなわち醜業婦<しゅうぎょうふ>のごときは狐となり、妾のごとき怠惰<たいだ>にして美衣美食に耽<ふけ>り、男子に媚<こ>び、安易の生活を送るから猫となり、人の秘密を嗅ぎ出し悪事の材料にする強請<ゆすり>のごとき者や、戦争に関するスパイ行為等、自己の利欲の為他人の秘密を嗅ぎ出す人間は犬になるのである。しかし探偵のごとき世の為に悪を防止する職業の者は別である。そうして世の中には吝薔<りんしょく>一点張りで金を蓄<た>める事のみ専念する人があるが、これは鼠になるのである。活動を厭<いと>い常にブラブラ遊んでいる生活苦のない人などは牛や豚になるので、昔から子供が食後直ちに寝ると牛になると親が窘<たしな>めるが、これは一理ある。又気性が荒く乱暴者で、人に恐れられるヤクザ、破落戸<ごろつき>等の輩<やから>は、虎や狼になる。おとなしいだけで役に立たない者は兎となり、執着の強い者は蛇となり、自己の為のみに汗して働く者は馬となり、青年であって活気がなく老人のごとくろくな活動もしない者は羊となり、奸智<かんち>に長<た>けた狡猾<こうかつ>な奴は猿となり、情事を好み女でさえあれば矢鱈<やたら>に手を付けたがる奴は鶏となり、向う見ずの猪突<ちょとつ>主義で反省のない者は猪となり、又横着で恍<とぽ>けたがり、人をくったような奴は狸や貉<むじな>となるのである。

 しかし、以上のごとく一旦畜生道に堕ちても、修行の結果再生するのである。人間が畜生道に堕ち再び人間に生れ又畜生道に堕ちるというように繰返しつつある事を、仏教では輪廻転生<りんねてんしょう>と言うが、それについて心得なければならない事がある。例えば牛馬などが人間からみると非常な虐待を受けつつ働いているが、この苦行によって罪穢が払拭され、再生の喜びを得るのである。今一つ面白い事は、牛馬は虐待される事に一種の快感を催すので、特に鞭で打たれたがるのである。右のごとく人間と同様の眼で畜生を見るという事は、実は的外れの事が多いのである。その他盗賊の防止をする番犬、鼠をとる猫、肉や乳や卵を提供する牛や羊、豚、鶏等も、人間に対し重要な役目を果すのであるから、それによって罪穢は消滅するのである。

 又面白い事には男女間の恋愛であるが、これは鳥獣の霊に大関係のある事で、普通純真な恋愛は鳥霊がすこぶる多く、鶯や目白等の小鳥の類から烏、サギ、あひる、孔雀等に至るまであらゆる種類を網羅している。恋愛の場合、この鳥同士が恋愛に陥るのであるから、人間は鳥同士の恋愛の機関として利用されるに過ぎない訳であるから、この場合人間様も少々器量が下る訳である。又狐霊同士の恋愛もすこぶる多いが、これは多くは邪恋である。狸もあるがこれは恋愛より肉欲が主であつて、世に言う色魔などはこの類である。又龍神の再生である龍女は精神的恋愛は好むが肉の方は淡泊で、むしろ嫌忌する位で、不感症の多くはそれである。従って結婚を嫌い結婚の話に耳を傾けなかったり、縁談が纏<まとま>ろうとすると一方が病気になったり、又は死に到る事さえあるが、これらは龍女の再生又は龍神の憑依せる為である。よく世間何々女史と言い、独身を通しつつ社会的名声を、博する女傑型は龍女が多く、稀には天狗の霊もある。

以上、霊界の構成や霊界生活、各種の霊について大体述ぺたのである。

「天国の福音書」 昭和29年08月25日

天国の福音書