単行本

 教祖の執筆活動は立教のころにまでさかのぼる。思想や言論が統制を受ける時勢にあって、教祖自身の全行動は当局の厳しい監視下に置かれ、間もなく具体的な宗教活動も禁止されてしまった。したがって、たとえ論文を書いても、思うように発表し、それを活字にして発行することはできなかったのである。

 そのような状況の中にあって、昭和一七年(一九四二年)には奇蹟的に『明日の医術』第一、第二篇だけは出版の許可がおりた。そこで、翌一八年(一九四三年)に出版祝いのつどいを開くことができた。さらにこの年『明日の医術』第三篇と、『結核の正体』金一巻を発行したが、残念なことに数か月後、警察の横槍がはいって発行禁止の処分にあってしまった。このことは、前に記した通りである。そして、この時の発禁処分を最後にして、教祖はしばらく執筆を中止したのであった。

 やがて昭和二〇年(一九四五年)八月の終戦を迎え、言論の自由も認められる時代となったので、ふたたび執筆に力を注<そそ>ぐこととなった。まずその手始めは、『明日の医術』全三巻を一冊にまとめ、昭和二二年(一九四七年)に『天国の福音』という題名のもとに出版したことである。この『天国の福音』は、『明日の医術』の中から新時代にふさわしい論文を教祖自身が選択し、収録したものである。新たに書いた序文でつぎのように述べている。

 「そもそも全人類が要望する最大にして最後の目標は何であるか、それは一言にしていへば幸福そのものであらう。これに対し否定する者は一人もあるまい。しかしながら幸福を獲んとする者も、既に幸福を得てそれ以上を持続せんと欲する者も切離す事の出来ないものは、何といっても『身体の健康』であらう。ナザレの聖者キリストは払った。『爾<なんじ>、世界を得るとも生命を失はば何の益かあらん』と、うぺなる哉かなである。」

さらに翌昭和二三年(一九四八年)九月には、『信仰雑話』と題する論文集を発刊した。『天国の福音』が戦時中の不自由な時代の中で書かれたことを思えば、この『信仰雑話』は、教祖が初めて、官憲の弾圧に悩まされることなく、宗教的な内容を思う存分に盛り込みながら、自由に筆を揮った教えの書物である。それだけに教祖には苦難の多かった来し方を振り返り、感慨<胸に迫るものがあったであろう。  教祖はこの書の「序文」の中で、借金苦、病苦など、筆舌に表わし難い人生の苦しみと、その一方で、神の守護や人々の支援によってそうした苦難を乗り越えてきた三〇年の信仰生活を振り返って、ここに自分が記した諸論文は、そうした経験の中からまとめられたものであると説き、  「信仰者にも無信仰者にも、学者にも一般人にも、理解され得るよう意を注ぐと共に、著を読んで些かなりとも安心立命の目的に資するを得れば幸いと思う次第である。」 と記して「序文」を結んでいる。  『信仰雑話』を皮切りにして、昭和二三年(一九四八年)以来数多くの論文が発表されたが、教祖が生涯を通じて執筆し、口述した論文の数は二〇〇〇篇を越えている。しかもその内容は宗数、政治、経済、教育、科学、芸術など、人間生活の諸分野万般にわたるものである。こうして真文明の創造のための指針が次々と示されていったのである。  執筆したものには、信者に教えとして与えたものや、『自然農法解説』『結核信仰療法』『アメリカを救う』『世界救世数奇蹟集』などの表題のもとに一般にも公刊、市販されたものがある。  教祖の論文は、教団発行の『栄光』紙、『地上天国』誌に掲載された。全国各地の弟子や信者は、その教えを一日千秋の思いで待ち望み、ひとたび発表されるや、その一語一語をむさぼるように読んでた魂の糧としたのである。  この当時出版された論文の中には、その時代の一般通有の科学知識や医学常識とされていたものと抵触する内容が含まれていた。もちろん、これらは、教祖のもつ前人未到の天稟(天から受けた才能)から説かれたものである。しかし世情とのいたずらな摩擦を避ける意味もあり、それらの公刊は一時見合わせる方がよいという判断から、検討を重ねたうえで、教祖の昇天後に、もっぱら宗教的な内容をもつ論文の中から選んだものを収録して、『天国の礎』と題して出版したのである。