大戦の末期

 昭和一七年(一九四二年)六月、ミッドウェー海戦での大敗のため、戦局は急速に不利に傾いていった。

 そうなると、わずか数か月前までは輝かしい戦果であった占領地が、そのあまりの広さゆえに、日本軍の上に重くのしかかり始めた。しかし、戦線維持のために、物量と科学技術の不足を気力と団結の力で補いながら、徹底的な消耗戦が続けられていったのである。

 昭和一九年(一九四四年)、時の首相・陸軍大将・東条英機は、元旦の新聞を通じて、戦局の容易ならざる事実を認め、全国民の前に公表するとともに、節倹に努め、勤勉に徹し、国民の総力を結集することによって、難局を打開せんものと国民に協力を呼びかけたのである。

 しかし、体制を立て直し、攻勢に転じた連合軍は、一月にはマーシャル群島、六月にはサイパン島、七月にはグアム島、一〇月にはフィリピンのレイテ沖海戦と、着実に勝ちいくさを進め、日本本土に向かって北上を続け、そのたびに日本軍は悲惨な玉砕と敗北を繰り返した。多くの艦船と航空機を失い、しだいに決定的な破局へと追い詰められていったのである。

 このころになると、国民は以前にも倍して、厳しい窮乏生活に耐えなければならなかった。すでにエネルギーや資源、食糧の不足は深刻であったが、その中で、なお軍需生産、軍需物資の確保が最優先された。電球や真空管、乾電池などでさえ、使い古しを持っていかなければ新品を購入することができなかったのである。エネルギー節約のために旅行の自粛が叫ばれ、また長い間見向きもされなかった水車が動力としてふたたび用いられたりした。

 一九年(一九四四年)四月、東京で雑炊食堂が開かれると、一鉢の雑炊を求めて連日長蛇の列ができたのであった。また、労働力の不足から、学生はもちろん、学童までが動員され、軍需工場で働くことになり、女性の労働力も日一日と重要さを増していった。
 政府はこのころになって、本土空襲は不可避であると判断し、学童はもとより、広く国民に戦火の及ばないと予想されるような場所へ、疎開することをより強く呼びかけた。国民の多くが、知り合いを頼って田舎へと移って行ったが、はたして昭和一九年(一九四四年)の末から米軍の空襲が本格化していったのである。