さて実際の浄霊だが、總斎のもとで幾人かの男女の弟子たちが助手として手伝いをしていた。まず最初に助手の“下浄霊”が行なわれてから總斎が浄霊をするのだが、患者は相当の順番待ちの時間を経てやっと待望の浄霊となる。
普段は住居としている二階で、弟子から“下浄霊”をていねいに施される。これは約十五分くらいである。そして、三階へ上がると總斎が明主様ご揮毫の観音像を背に坐っており、一対一の浄霊を取り次がれるのである。總斎の浄霊は通常三、四分の短い時間であった。しかし、なかにはもう少し時間のかかる者もいる。
当時、角筈で總斎から直接浄霊を受けた者は、
「こんなことで大丈夫かなと思いましたが、その三、四分の浄霊が次々と神秘的な奇蹟を生み出していく現実に、人びとはみな大きな喜びと希望を得ていかれたと思います」
と、述べている。狭い部屋には治療待ちの男女がつめかけ、
「はい、これでいいでしょう。さあ次の方」
という状態で、その間ほんのわずかの時間なのだから、川端の言葉どおり、サクラがいたのではないかとの疑念を抱くのも当然といえば当然である。しかし總斎の浄霊の力は人びとの想像以上のものであった。時間が短いからといって手を抜いているわけではない。この短い時間で患者は痛みがなくなり、よくなっていくのである。
一日百人以上の患者を浄霊するのであるから、仮に一人に対して浄霊を施す時間を平均五分として計算しても、八時間以上必要である。これは浄霊に専念している時間であるから、患者の交代にかかる時間やその他、所用の時間を加えれば、ほぼ十二時間、一日の半分もの間總斎は浄霊にかかわっていたことになる。これではお茶を一服する時間すらなく、ましてや食事を摂ることもできない。順番待ちの患者が治療所に溢れており、列をなしているのだから、ゆっくり休憩をとるような場所も時間も總斎にはなかったのである。このような時でも總斎はいささかの渋面をも見せず、患者を浄霊し続けた。しかし、助手をしている弟子たちはたまったものではない。毎日お腹が空いて本当に困ったという、当人たちには笑うに笑えない話が残っている。
浄霊の時間は原則として朝九時から午後五時までであった。しかし、朝早くから順番待ちの患者がいっぱいであったし、患者はひきも切らずに訪れるので、夕方も結局は七時、八時頃まで浄霊していた。もちろん角筈の治療所が、最初からこのように盛況であったわけではない。最初は日に一人か二人であったのだが、奇蹟を眼前に見た人が多くなって、評判が評判を呼び、ついには自宅改造ということにまでなったのである。
新宿・角筈の自宅を改造して治療所としていた頃、明主様は近くまでお出ましの折は、總斎の治療所にお立ち寄りになることがしばしばあった。明主様がおいでになる日も治療所は患者で溢れ、文字通り立錐の余地もないほどの混雑である。あまりに忙しく人が多いので、申し訳ないことではあるが、明主様に座布団を用意することすらできぬ有様であった。
總斎が角筈の治療所に溢れる人の群を次々とさばき、さながら流れ作業のように一瞬の休みもなく浄霊を行ない、夜は、頼まれて水戸まで行った徹夜の出張浄霊の話を助手の進藤玉枝からお聞きになられた明主様は、ただ一言、
「これは渋井さんだからこそできる芸当だね」
と、おっしゃりながら、相好をくずしてお喜びになられたという。明主様のその時のお顔は、
「どうだ、おれの弟子はたいしたもんだろう」
と、快哉をお叫びになりたいような、ご満悦の様子であったと伝えられている。