殺到する患者たち

 「ウーッ、苦しい。助けて、助けてください」
 總斎の前に今運ばれてきた中年の女性は、朝から新宿・角筈の治療所で治療を受けるため、順番を待って並んでいたのだが、下腹部を急なさし込みにおそわれ苦しみ出し、“下浄霊(總斎の行なう浄霊の前に弟子から受ける浄霊)”では手に負えなくなった。仕方なく、三階で浄霊を行なっていた總斎の許に運ばれてきたのである。朝からといっても、まだ暗いうちから順番待ちの長い行列ができるのだから、なかなか順番がまわってこない。この患者はもともと心臓が弱く、巷の噂を聞いて今日初めて角筈の治療所に訪ねてきたのであるという。

 患者がここが痛いと説明する前から、總斎は適切に患部に手を持っていく。これは誰に教わったことでもない、總斎自身にもとから具わっていた不思議な力である。
「ここが痛いのですね」
 と、患者に声をかける頃には、アッという間に、背中からぐるっとまわって腹部まで治療を終えている。
「は、はい、……いえ、あの……」
「もう大丈夫。それでは次の方」
「まだ……」
「もう、治りましたよ。腹のさし込みは気にすることはないでしょう。朝、食事を摂りましたか。……そうでしょう。いくら早くから並んで待つといっても、朝食はちゃんと摂った方がいい」 「ああ、それから心臓の方も治療をしておきましたよ。こっちの方はもう一回来てください。それで全部治りますよ」
「……」
 
 新宿の角筈は、渋井總斎の本教における布教活動の出発点である。もともと總斎は、大正の中頃から、ここ角筈で大内屋という洋服店を開いていたが、その店に治療所の看板を掲げたのだ。昭和十五年のことであった。
 
この年、總斎はすでに五十歳を越えていたが、十七年後の昭和三十年に六十九歳で帰幽するまで、教団発展のために寝食を忘れて布教し、明主様に徹頭徹尾お仕えした生活がここから始まったのであった。

 新宿。角筈は總斎の自宅であったが、治療所開設当時は一階をそのまま洋服店として残し、その経営は従業員に任せた。そして二階を住居、三階を治療所として使用した。自宅を改造して治療所にするまでは、主に出張治療で布教していたわけだが、このあと角筈が總斎の活動拠点となっていくのである。洋服店を兼ねた治療所の木造三階建ての建物は、当時としてはたいへんモダンなものであった。しかし、窓が少ないため風通しが悪く、夏は蒸し暑い。總斎は全身汗まみれとなって浄霊に取り組んでいた。

 角筈の治療所では奇蹟の連続だった。ここでの多くの奇蹟顕現が評判を呼び、總斎の素晴らしい浄霊の力を求めて、連日多くの人びとが治療所に殺到するようになっていた。当時、青果商を営んでいた川端廣重は、義兄の渡辺勝市に半ば強制されて、角筈の治療所を訪ねることになった。彼は当時を振り返って次のように述べている。
「先生が浄霊されているのを間近で拝見させていただくことになりましたが、先生はポツン、ポツンとお話をされるだけで、ずっと浄霊をされておられました。浄霊をいただいた方々から、みな一様に、楽になったという言葉が出るので、最初は上手にサクラを使っているなと思ったほどです」

 總斎の浄霊は、たしかに多大な効果があった。むしろ、あり過ぎた。初めて總斎の治療所を訪れた川端が、患者をサクラと見誤ったのは当然のことかもしれない。しかも浄霊はアッという間である。朝早くから長い列をつくって並んでも、実際に總斎に浄霊を受けるのはものの三、四分である。これでは疑わない方がおかしいというものである。だが川端自身が浄霊を受けることによって、この誤解も完全に解けた。

 患者のほとんどは、病院では治せないと宣言されたり、長年、持病に苦しんできた人たちであったから、總斎の行なう浄霊によって病苦から解放された時の喜びはひとしおであった。もっとも、長年病気とつきあってきたのだから、急に “治りましたよ”と言われてもピンとこない者もあった。病気は治ったのだが、本人はまだ病気であると思い込んでいる。こういう場合は心の問題である。これは一回や二回の浄霊ではどうにもならない。しかし、總斎の浄霊に通うことによって心まで癒されていったのである。

 もちろん總斎が治すことができない患者もいた。總斎の力が及ばなかった患者は、すでにその寿命が尽きた人であり、總斎にはそのことがはっきり“見えた”のであろう。總斎は自分では治せない旨を患者本人や身内の者たちに説明した。ただその際には、大きな病院に行ってみるとか、あるいは有名な医者にみせるようにと、必ずアドバイスを忘れなかった。実はこれまで總斎が見放して助かった者は誰もいないのだが、当人や親族たちに一縷<いちる>の希望を残しておいたのである。