すでに記した通り、水晶殿の建設は昭和二九年(一九五四年)九月一七日に着工、教祖がその完成を急いだので、突貫工事が行なわれ、三月足らずのうちに、つつじ山を見おろす景観台の上に、半円形の独特な建物が完成したのである。
塵ほどの罪や積れも隠し得ぬ御代を水晶世界といふなり
と教祖は詠んでいるが、水晶という名称は「曇りのないもの」ということから、理想世界の象徴として名付けられたものである。
この水晶殿からの眺めはすばらしく、熱海湾を越えて、はるか伊豆、相模、房総に至る雄大な眺望が、さながら 錦絵のように見渡すことができる。
一二月一一日の完成の日、教祖は碧雲荘から水晶殿に移り、さっそくここで一夜を過ごしたが、そのおりに幹部を招いて、
「只一言だけ言いますが、いよいよ御神業の本スジに入って来たわけです。
ですからこれから色んな変った事が沢山出て来ま すから、まごつかないように……。」
との話をしたのである。
そのあと、教祖の意向として、つぎの二点が執事の阿部晴三から発表された。
その大略は、第一に、この水晶殿は地上天国の雛型として、神が造らせたものであるが、けっして教団が独占するものではなく、一人でも多くの人々に、天与の景勝を楽しんでもらいたいこと。
第二は、今後、教団の組織が改められ、浄霊の力の優れた者、多くの人を救い導いた者、神に対する奉仕に働きのあった者という三つの点を中心に人材を選び、資格を与えていく、というものである。
この日、教祖を出迎えようと、瑞雲郷に参集した信者は、午後一時過ぎ、教祖が水晶殿にはいったあとも、なおその場を去り難く、中の何人かは、思い思いの場所にたたずんでいた。するとその時である。水晶殿南面のアタリライトの片隅に白い靄のようなものが盛り上がり、やがて黄金色に輝き始めたのである。何人かがいち早くそれに気付いて、
「あっ、お光だ!お光だ!」
と叫ぶうちに、その光はなおも広がって、ついに水晶殿全体が白色の輝きに被われた。するとその中央に、ひときわ鮮やかに巨大な光の柱が姿を現わし、天空に向かってすばらしい白光を吹き上げたのであった。
後の「光明教会」会長・勝野政久も、この日、この光の柱を見た一人であるが、その時の様子をつぎのように語っている。
「明主様のお出迎えを終わり、私はつつじ山の東側の坂道を水晶殿の方へ歩いておりました。その場所からは、つつじのため水晶殿は見えませんでしたが、突然、『あっ、お光が……。』と いう叫び声がするので見上げると、水晶殿の屋根の中央から左寄り(救世会館側)のあたりに、大きな光が柱のようになって白く輝きながら、天にも届くばかりに立ち昇っているのです。本当にびっくりしました。このお光を、同行の信者さんも一緒に見せていただきましたが、それはほんの二、三分だったでしょうか。短い時間でしたが、今でもはっきり思い出します。
その光の柱の荘厳雄大な光景は、感動などという生易しいものではなく、もう無条件に平伏してしまいました。そのころ私は、対人関係のことでトラブルがあったりして悩んでいましたが、この日の大変な奇蹟は、そんな人間的悩みなどすべて吹き飛ばしてしまいました。そればかりでなく、この体験は今日にいたるまで、私の信仰の支えとなっております。」
教祖は一二月二三日の生誕祭には、メシヤ降誕仮祝典以来、半年ぶりに信者の前に姿を見せた。この前後数日は体調も比較的良好で、前日の一二月二二日には介添えなしで立って見せたりしていたほどであった。また生誕祭二日後の一二月二五日には、
「身体に力がついてきた。」
と語っている。
教祖は浄化にはいってから、
「ご讃歌は、本来、私でなく、信者が作って捧げるものだ。」
と言って、広く信者の間から募集した。そして七二回目の誕生日を迎えた生誕祭には、教祖に代わって、よ志の詠んだ歌四首が讃歌として斉唱された。
われは今碧雲荘にこやりつつ静かに天の秋を待ちをり
晴晴台どよもし聞ゆ太のりと教祖生れし日を祝い奉ると
初めの一首は、教祖の心を推し量って歌ったものであり、あとの一首は信者の一人として、生誕祭への祝いの気持ちを捧げたものである。
さらに、明けて昭和三〇年(一九五五年)一月一日、新年祭にさいしては無理をおして、車椅子に乗り、信者の前に出て、つぎのような年頭の挨拶をした。
「まだ大きな声が出ませんから、」聞きとり難いだろうと思いますが、とも角これだけに治ったという事—-皆さんの前で喋れるようになったという事は、非常に嬉しいと思ってます。」
新しい年が明けても、教祖は毎日、美術品に目を通すことを欠かさなかった。そして美術品を見る間、美術品の扱い方や、その場の心配りの在り方を示すことを通して、よ志や側近者に対し、厳しい指導が繰り返された。それまでに説き残した教えを伝えようとするかのように激しい気魄が込められた、徹底した指導であった。
一月二八日のことである。いつものように美術品を見ていて、日本陶器を納めた箱の外蓋に文字を書いた一枚の紙が貼ってあったのを、教祖が、
「何と読むのか。」
と尋ねた。教祖が見る美術品を、用意する役目であった尾西昭生は不意、の質問に戸惑い、十分確かめずに、
「読めませんが。」
と言ってしまった。教祖は今度は、よ志に向かって、
「君は?」
と聞いた。よ志は初め、
「私だってわかりませんね。」
と言ったが、よく見ると正しく読みとることができた。そこに書かれていたのは「赤星蔵」という文字であった。すると教祖は、
「ちょっとしたことで軽挙妄動するようでは駄目だ。それだけで小人と思われてしまう。じっと物事を見きわめて後、動くようでなければ大人とはいえない。小さなことでも見逃さないように、隙がないように、常に隅々まで気を配っていなくてはいけない。九州の赤星家といったら有名なものだよ。そんなことでは剣術だったら、お面も胴もとられて、すでに命はないところだ。付け込まれる隙のないようにしていなければいけない。」
と尾西に諭したのである。しかし、その場に居合わせていた者は、一同、この言葉を人事と思えず自分への教えとして受け止めたのであった。
教祖は不意に尋ねられて、あわててしまった尾西の態度を例にとって、常に心を落ち着け、物事の本質を見きわめて対処することの大切さを説いた。また同時に、何を聞かれても、どのようなことがあっても、まごつかないように、必要なことは、あらかじめ調べて、備えを怠らない心配りの大切さを教えたのである。
その数日後、二月四日の立春祭に、教祖は黄金色の袍(文官や武官が朝廷に出仕する時に着用する正服の上着。位階によってその服の色が定められている)に身を包み、自分の足で歩いて救世会館の舞台中央まで出た。そしてつぎのような挨拶を述べた。
「きょうは、ほんとうに久しぶりで、やっとこれだけしゃべれるようになった。ですから、おしゃべりしたいことはたくさんありますが、まだ、頭が少し—-。何しろ、あんまり、大きい声を出すたびに、頭へ響くんです。ですから、もう少し回復して、それから大いに—-それも長いことはないと思いますが。……楽しみにしていてもらいたいと思うんですが—-。」
低くはあったが力強小その声に、救世会館を埋めつくした七〇〇〇名の信者は、教祖が回復する日も間近いものと、希望に胸をふくらませたのである。しかし、この立春祭は、信者にとって、現人の教祖に接する最後の機会となったのである。